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九州の近代化遺産・産業遺産を見て・調べて・紹介!するブログ

大浜飛行場跡

 前々回とその前に大刀洗平和記念館とその周辺を紹介しましたが、その大刀洗へと行くきっかけとなったのが今回紹介する大浜飛行場です。

 大浜飛行場は、熊本県の北部に位置する玉名市にあった旧陸軍の飛行場で、大刀洗陸軍飛行学校の大刀洗第三教育隊玉名教育隊として昭和19年3月に完成。入校した少年飛行兵たちは“赤とんぼ”と呼ばれた複葉機などで4か月の訓練を受けたのち、各航空隊に配属されていきました。終戦が近づく昭和20年の5月、大規模な爆撃を受け飛行場と付随施設は壊滅的な被害を受けます。教育隊は改編され鳥取県米子市へ移転し、飛行場は修復される間もなく終戦を迎えることに。

 戦後は開拓され、飛行場は田畑や住宅地へと姿を変えてしまいますが、それでも格納庫や各施設の基礎部分など多くの遺構が残っています。とはいえ、それらは私有地の中であったり基礎として再利用されていたりして見つけることは非常に困難です。今回は「玉名市立歴史博物館こころピア」職員のTさんとAさんに案内していただき、現地を細かく見学することができました。

大浜飛行場 正門と案内板
大浜飛行場の正門と案内板

 正門の門柱が片方だけ残されています。脇には案内板も作られており、大浜飛行場の歴史と概要を知ることが出来ます。

大浜飛行場 大型格納庫Aの床コンクリート
大型格納庫Aの床コンクリート

 大型格納庫の床とのことですが、これは言われなければ気が付きませんね。付近には格納庫の基礎や大きな扉のレール跡などが残されています。

大浜飛行場 大型格納庫Bの基礎部分
大型格納庫Bの基礎部分

 倉庫の基礎に組み込まれている大型格納庫の基礎。この周囲には扉のレール跡や井戸などの遺構も。いずれも個人宅の敷地内にあります。

大浜飛行場 大型格納庫Bに残る爆撃による傷跡
大型格納庫Bに残る爆撃による傷跡

 住宅の基礎に再利用されている格納庫の基礎。無数の傷穴は、爆撃時の爆弾破裂によるものです。

大浜飛行場 酒保(売店)の煉瓦塀と門柱
酒保(売店)の煉瓦塀と門柱

 畑と住宅の境目にポツンと残る煉瓦塀と門柱。隊内生活で使う日用品を扱った売店の跡だそうです。

大浜飛行場 滑走路の痕跡はない
滑走路跡

 飛行場敷地北側から南側を向いて。正面方向へ滑走路が延びていたそうですが、今やその面影はまったくありません。


 上のGoogleマップは、玉名市立歴史博物館こころピアで発行している大浜飛行場のパンフレットを参考にして作成しました。青で囲った部分が飛行場の敷地で、縦横1500m×1000mあります。各マーカーをクリックすると、それぞれの遺構の写真を見ることができます。※北東側と南東側の境界と白枠の滑走路の位置は、私がパンフレットから推定したもので正確ではありません。

 旧日本軍関連の施設は資料が残されていないことが多いそうで、この大浜飛行場も公的な資料はほとんど無かったとのことです。その様な中で、「玉名市立歴史博物館こころピア」職員のAさんは約30年にわたり地元で聞き取り調査を行い大浜飛行場の全容を調べあげられました。その成果はパンフレット(マップ)にもなっており、「玉名市立歴史博物館こころピア」にて無料で配布されています。今回紹介した遺構はそのほんの一部です。

お問い合わせは

■玉名市立歴史博物館こころピア
  〒865-0016 熊本県玉名市岩崎117
  電話0968-74-3989
  Webサイト:http://www.city.tamana.lg.jp/kokoropia/kokoropia.html

当日案内していただいた博物館のTさん、Aさん、大変お世話になりました。この場を借りてお礼を申し上げます。

※私有地にある遺構は、必ず所有者の許可を得て見学してください。

【関連記事】
雑記帳・大刀洗平和記念館

【関連サイト】
玉名市立歴史博物館こころピア
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大刀洗平和記念館

 10月4日(日)に、前日オープンしたばかりの「大刀洗平和記念館」に行ってきました。記念館は福岡県筑前町が約10億円かけて建設したもの。戦時中、同町一帯は旧陸軍の大刀洗飛行場や航空教育隊、航空機工場などがあり一大軍都として発展。しかし終戦間際の大空襲により壊滅的な被害を受けます。そのような歴史を持つ場所に「平和の大切さを語り継ぐ情報発信基地」として、この記念館がつくられました。

筑前町立 大刀洗平和記念館 外観

 記念館の外観はカマボコ型のシンプルな形状ですが、これは飛行機の格納庫をイメージした形だということです。流石にオープン翌日の日曜日だったので非常に混雑しており、入場券を買うのも長〜い行列が出来ていました。来場者は若者や家族連れなど幅広い年齢層でしたが、やはりお年寄り、特におじいちゃんが多かったように思います。展示物に食い入るように見ておられた方が多かったのが印象的でした。じっくりと見ていく内容の展示物が多かったのですが、この日は人が多くてなかなか立ち止まることができません。また時間をあけてから、もう一度訪れてみたいと思います。

筑前町立 大刀洗平和記念館 展示中の零戦

 通常、この手の施設は展示物の撮影を禁止していることが多いのですが、ここ平和記念館ではこの零戦に限り写真の撮影が許可されています。私は本物の零戦を見ることが初めてでしたので、この展示はとても楽しみにしていました。

 この零戦は昭和16年に三菱重工名古屋工場で生産された「三二型」で、主翼の先端が直線的になっているのが特徴。現存する「零戦三二型」は、世界でも唯一この機体だけ。昭和53年、マーシャル諸島タロア島のジャングルで発見され、様々な困難を乗り越え昭和58年に日本へ帰還したそうです。

筑前町立 大刀洗平和記念館 展示中の零戦

 間近でコックピットを見ることができます。パイロットはこの非常に狭い操縦席にどんな気持ちで乗り込んだのでしょう。

 大刀洗平和記念館といえば、甘木鉄道の古い太刀洗駅舎を利用した私設の平和記念館として有名でしたが、町立記念館の建設に伴い閉館することに。しかし私設記念館の約2,000点に及ぶ展示物は、新しい記念館へ提供され引き継がれることになりました。実は以前から私設記念館に行ってみたく思っていたのですが、間に合いませんでした…。

太刀洗レトロステーション 外観

 しかし、旧記念館は「太刀洗レトロステーション」として新たに生まれ変わることに。レトロをキーワードに「暮らし・文化・ものづくり」のテーマに沿った展示が行なわれています。

太刀洗レトロステーション 待合室部分

 懐かしい昭和の家電製品や生活雑貨などの展示物も魅力ですが、元々は駅舎だった建物も見所の一つ。昭和14年に国鉄甘木線の太刀洗駅として開業した建物には、待合室や切符売りの窓口跡などの痕跡もはっきりと残されています。

太刀洗レトロステーション 線路地下道

 駅の改札があった場所を抜けると、線路の向こう側にあるホームへと続く地下通路が残されています。戦時中、陸軍航空隊があったころは毎日約2万人の人々がこの通路を行き来していたそうです。現在はホーム側は封鎖されていますが、通路はホーム直下まで見学することができます。

■筑前町立 大刀洗平和記念館
 福岡県朝倉郡筑前町高田2561-1
 TEL:0946-23-1227
 Webサイト:http://tachiarai-heiwa.jp/

■太刀洗レトロステーション
 福岡県朝倉郡筑前町高田417-3(甘木鉄道太刀洗駅駅舎内)
 TEL:0946-22-2686

 ところで…。出かける前日に「よーし明日は太刀洗に行くぞ!念のためにGoogleマップで場所を確認だ!」と、太刀洗駅周辺をGoogleマップで眺めていたときのこと。太刀洗駅東側から南にあるキリンビール福岡工場へと伸びている、ある“線形”に偶然気が付きました!こっ、これは!!


 地図には何もありませんが、航空写真で見ると甘木鉄道から枝分かれした線が大きなカーブを描いてキリンビールの工場へと繋がっているのがわかります。この続きは次回に(笑)。
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片島魚雷発射試験場

 大村湾の北側に位置する長崎県川棚町は、戦時中に海軍工廠(海軍直営の軍需工場)が設置されていたため今でも関連する多くの遺構を見ることができます。その中でも、片島という小さな半島に造られた「片島魚雷発射試験場」は、数多くのWebサイトに紹介されている有名な遺構です。海に突き出た構造物や木々に埋もれゆく廃墟は、一種独特な景観を作り出しています。

 現地では断続的に強い雨が降る最悪のコンディションでしたが、所用のついでに無理して川棚まで足を伸ばしたので強引に見て回ることに。川棚町内を東西に横切る国道205号から「片島」の先端へ続く路地に入り、集落が途切れるところまで進むと5連アーチが特徴的な桟橋が見えてきます。

片島魚雷発射試験場

 手前には川棚町教育委員会による案内板も。それによれば佐世保湾北岸の海軍工廠で製造された魚雷を試験するために、大正7年、ここ片島に魚雷発射試験場を設置。そして昭和17年に川棚に海軍工廠が設置されたことに伴い施設を拡張。その際に片島は海峡が埋められ陸続きになったとあります。なるほど、半島なのに地名が「片島」になっているのにはこういう経緯があったんですね。

片島魚雷発射試験場の案内板(川棚町教育委員会製作)

 桟橋の陸側にあるのが、石組みと煉瓦、そしてコンクリートも使われている大きな建物の廃墟です。発射試験を行なう魚雷の調整などを行なったと思われる建物ですが、既に窓や屋根などは全く残っていません。しかし、床にはタイルの部分があったり、何かの台座のような構造物があったり、また深い窪みが造られていたりと数多くの特徴ある痕跡が残されています。

片島魚雷発射試験場

 建物内部から。床から生えた木々は屋根の高さまで達し、廃墟となってからの時間の長さを物語っています。

片島魚雷発射試験場

 その建物の正面から伸びる桟橋上面には、レールが敷かれていたと思われる痕跡があります。おそらく魚雷を運搬するのにトロッコなどを使ったのではないでしょうか。

片島魚雷発射試験場

 桟橋を渡り切った突き当たりにはクレーンのものと思われる大きな台座の痕跡も。おばちゃんが「小さな魚しかいないね」と釣りをしていました。

片島魚雷発射試験場

 桟橋の先端は浸食により一部が大きく陥没しています。塔屋は元々二つ建っていたそうですが、片方は倒壊しており僅かに瓦礫が残っていました(写真右端)。塔屋の間にはコの字型の窪みがあり、そこから魚雷を海中へと降ろして発射していたのではないでしょうか。

片島魚雷発射試験場

 塔屋は外見からだと鉄筋コンクリート造に見えるのですが、内部に入ってみると煉瓦造であることがわかります。しかし、よく見てみるとモルタルが剥離し鉄筋が露出している部分もあるので、完全な煉瓦造ではないようです。

片島魚雷発射試験場

 桟橋先端から陸地を振り返って。写真右端にも二階建ての施設が見えますが、陸続きではないのでたどり付く事はできません。

片島魚雷発射試験場

 コンクリートで作られた車一台が通れるほどの道がありますが、途中で途切れています。建物の入口らしい部分の下側が橋台と思われる形状になっており、同じものがこちらの陸側にもあるので元々は橋が架かっていたのでしょう。

片島魚雷発射試験場

 今回紹介した施設以外にも、発射された魚雷を観測する為の観測所が片島の高台部分に現存しています。しかし、今回は雨が強くなり探索を断念。次回、天気が良い日に再訪したいと思っています。



【参考・関連サイト】
ALL-A」> 川棚町の関連サイト・エントリー集
みに・ミーの部屋」> 廃虚・近代遺跡写真館 > 川棚町戦争遺跡
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健軍飛行場の掩体壕

 前回紹介した旧三菱重工熊本航空機製作所の北側には、付属の飛行場ともいえる陸軍の健軍飛行場があり、工場で生産された重爆撃「飛龍」の1号機もここから飛び立っています。終戦後は「旧熊本空港」となり、昭和46年に現在地である益城町に移転するまで民間の空港として使われていました。

 現在の飛行場跡地周辺は開発が進んで住宅密集地となり、民間空港時代の滑走路跡にも公共施設や病院などが建ち並び、僅かにその区画に線形として痕跡を残すのみとなっています。

 しかし驚くことに陸軍の飛行場時代の遺構が、飛行場敷地北側の住宅密集地帯に残っています。しかもその遺構とは掩体壕(えんたいごう)!熊本に掩体壕が現存していたというのも驚き。掩体壕とは戦闘機や爆撃機を敵の襲撃から守るためのもので、簡単に言うと飛行機のシェルターのようなもの。大分県宇佐市のドーム状の掩体壕(参照:建築マップ/城井掩体壕群)などが有名ですが、熊本では土手でコの字に囲んだだけの天井がない“無蓋型”が多かったそうです。天井が無くて飛行機を空襲から守れたのかちょっと疑問なんですが、上空から見つからないように草木を被せてカモフラージュしていたようです。

熊本市長嶺の掩体壕

掩体壕は住宅地の真ん中にポツンと開けた空き地にあります。元々は竹林だったようですが全てきれいに伐採されており、コの字型に土手が作られているのがよくわかる状況になっています。

熊本市長嶺の掩体壕

土手の高さは最高でも2mはないようです。立ち入りを規制する柵はありますが、特に掩体壕の案内や説明をする看板はありません。
 しかし30数年前まであった旧熊本空港の遺構も全く残っていな状況で、このように掩体壕が残っていることは奇跡と言ってもいいかも。

熊本市長嶺の掩体壕

白い破線が土手の頂部。自衛隊健軍駐屯地広報館で撮影した「飛龍」を合成してみました。実際はこの上から草木で覆ったのでしょう。


拡大地図を表示

地図上部にある緑のマーカーが掩体壕遺構。周辺は住宅密集地で道路も狭いため、見学の際には十分な注意と配慮が必要です。グレーの矩形が民間空港時代の滑走路跡。地図下部の赤いエリアが旧三菱重工熊本航空機製作所(現・自衛隊健軍駐屯地)です。

【関連記事】
旧三菱重工熊本航空機製作所
三菱重工熊本航空機製作所引込線

【掩体壕参照サイト】
建築マップ」> 城井掩体壕群
ALL-A」> カテゴリー「近代化遺産 軍事・戦争遺跡 」

【参考文献】
「子どもと歩く戦争遺跡 熊本編1」熊本の戦争遺産研究会/編
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熊本地方航空機乗員養成所跡

 「熊本県合志市(旧西合志町)の黒石原に謎のコンクリート遺構があります」という情報を読者の方からいただきました。黒石原といえば第二次大戦中は飛行場があったところで、現在は住宅地や牧草地となっており周辺には陸上自衛隊の演習場などもあります。おそらく飛行場に関する遺構(高架水槽の基礎などを期待)ではないかと思い、早速現地へと行ってきました。

黒石原の謎の遺構

 黒石原コミュニティーセンター前の緑地に、確かにコンクリートの遺構があります。何かに使われている様子もなく、正しく“謎の遺構”という趣。中心の四角いコンクリート構造物を取り囲むように正方形の段差が2段取あり、正面と思われる部分には階段も付けられています。

黒石原の謎の遺構

表面はボロボロですが部分的に大理石が残っており、全体が大理石張りという贅沢な造りだったようです。

黒石原の謎の遺構

内部は大人が3人ほど入れる大きさがあります。内壁は落書きだらけ。昭和40年代の日付が書かれた落書きもありました。

 一見すると銀行跡地に残されがちな金庫室の跡かとも思いましたが、どうしても周囲を囲む段差が引っかかります。記念碑の土台かとも考えましたが、内部の空間が引っかかります。手がかりを求め周囲を探索するも何も見つからず。結局謎のままに退散。

 家へと戻り黒石原飛行場を紹介する書籍を読み返すと…。この遺構、しっかりと写真付きで紹介されていました(笑)。現地へ出向く前には、せめて手元の資料だけでもちゃんと目を通すべきですね(汗)。それによるとこの遺構は航空機乗員養成所にあった奉安殿の跡。奉安殿とは天皇陛下の御真影や教育勅語などを保管する専用の建物で、第二次大戦中までは多くの学校や教育機関に設けられていたそうです。

 黒石原のこの地に飛行場が造られたのは昭和13年のこと。逓信省直轄航空局航空機乗員養成所の飛行場として開設され、同年に熊本地方航空機乗員養成所も開設。その後昭和19年に陸軍が接収し、少年航空兵の練習場として終戦まで使われました。奉安殿跡はこの養成所の唯一の遺構ということです。以下のGoogleマップの赤マーカーが奉安殿跡で、赤枠エリアが養成所跡になります。隣接する青枠エリアが飛行場で、現在は大半が農地となっています。


拡大地図を表示

今回の参考文献は、以前「荒尾二造」でも紹介した「子どもと歩く戦争遺跡2」。熊本の戦争遺産研究会が戦争遺跡を活用しようという考えのもとにまとめられた本で、黒石原飛行場と養成所も当時の写真や配置図などを使い詳細に紹介されています。先月、熊本県南を中心にまとめた第3編が刊行されました。天草に点在する砲台跡や基地跡、水俣の大規模地下壕などなど、熊本県南の知られざる戦争遺跡を多数紹介。読んでみて驚きの連続でした。書店での取り扱いはありませんが、興味がある方は以下の連絡先で購入できるそうです。
「子どもと歩く戦争遺跡3熊本県南編」A5版172ページ
価格1,200円(送料別)
問合わせ:上村文男さん(TEL/FAX 096-344-8293)

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丹賀砲塔砲台

 九州と四国の間にある豊後水道の中で、最も水路が狭い部分に豊予海峡があります。この海峡に面した地域には明治から終戦までに、敵艦の侵入や攻撃に対抗するための砲台や堡塁などの要塞が数多く作られました。その中のひとつが大分県佐伯市鶴見にある丹賀砲塔砲台です。写真中央の丘の上にある銀色のドームが砲台跡。

山上の銀色のドームが砲台跡

 丹賀砲塔砲台は大正15年(昭和2年という説もあり)に起工。当時の技術では難工事だったといい、竣工したのは昭和6年でした。砲台に収まったのは、なんと巡洋艦の後部主砲。大正12年に廃艦となった巡洋艦「伊吹」のもので、口径30センチの二連装砲塔、射距離は26800メートルあったと記録されています。下の写真が砲塔の内部です。

丹賀砲塔砲台

 対米英関係が緊迫する中、昭和17年になり実弾試射をすることになります。しかしその日の試射の最後の1発が暴発。砲室内にいた16名全員が即死し、周囲の施設にいた28名が重軽傷を負うという大事故になりました。砲塔内部のコンクリート壁に残る深い傷跡が、その爆発の激しさを表しています。この事故により丹賀砲塔は、敵艦に向かって1回も砲弾を発射することなくその役目を終えることになりました。

丹賀砲塔の入口

 現在は“ミュージアムパーク・丹賀”の一部として一般に公開されています。上写真の右手が砲台入口、左手奥が弾薬庫の入口。砲台入口からは急角度の斜坑になっており、階段と併設されたケーブルカーに乗って砲台直下まで昇って行くことができます。

丹賀砲塔内部

 砲台直下の地下には動力室や冷却室などの各施設ごとに部屋が作られています。現在は機器類は全く残っていませんが、パネルによる説明や展示がされていました。丹賀砲塔砲台の周辺には鶴見崎要塞群と呼ばれるトーチカや小規模の砲台が多数残されています。岬からの眺めは大変美しいものですが、点在するコンクリートの遺構がかつての軍事的要所だったことを物語っています。
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針尾送信所無線塔

 長崎県佐世保市のハウステンボス(テーマパーク)近くに、3本の巨大な塔がそびえ建っています。遠くからでも目立つその塔は、旧日本海軍が大正11年に建造した無線送信所のアンテナの一部です。

針尾送信所 無線塔

 3本の塔は鉄筋コンクリート造で、高さが135〜137mにもなります。塔は約300mの間隔で正三角形に配置され、当時それぞれの塔の先端をアンテナになるケーブルが結んでいました。現在、長距離通信には人工衛星などが利用できますが、当時の長距離通信は長波を利用したものでした。長波は文字通りに波長が大変長い(数百m〜数km)ためにアンテナも巨大なものが必要で、このような施設が造られたわけです。

 現在これらの3本の塔の中心には、佐世保海上保安部の送信所があります。戦後の一時期にはこの無線塔も海上保安部で使用されていたようですが、現在は使用されていません。3本のうち2本は根元まで行けるようで、うち1本は民有地の畑の中にあり「無線塔→」と書かれた小さな手作りの看板が周辺に複数あったので簡単にたどり着くことができました。下の写真が塔の根元。中央に抱きつく私が写っているのがわかるでしょうか。

針尾送信所 無線塔

 130数mを支える根元の部分の直径は12m。遠くからみると電柱と大して変わらないようにも思えますがさすがに太いです。真下から塔を見上ると、どんな形の建物かよくわかりません(笑)。

 ところで近くまで行って驚かされることがあります。コンクリートの表面がとても美しく、ひびの一つも見つけることができないのです。表面のきめも細かく、とても大正11年に造られたようには感じられません。

針尾送信所 無線塔のアップ

 表面に型枠の板の跡が残っていますが、大変滑らかな仕上がりになっているのが上の写真で分かると思います。写真中央にある四角い穴は、塔に数箇所ある明り取りの窓のようです。塔の内部は空洞になっており、メンテナンス用のための梯子があります。130mの梯子とは考えただけでもゾッとしますね。

塔の入り口

 この針尾送信所は太平洋戦争開戦の出撃命令である「ニイタカヤマノボレ」を発信した送信所のひとつとしても知られています。単に大正期の鉄筋コンクリート建築物としてだけでなく、歴史的な戦争遺産としても考えられるこの送信塔ですが、現在佐世保市では保存か解体かで議論が交わされているそうです。

関連サイト : 建築マップ > 針尾送信所無線塔
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花房飛行場跡

 熊本県菊池市(旧泗水町)に終戦時まであった花房飛行場跡に行ってきました。この飛行場は昭和10年から軍用飛行場として建設が始められ、昭和15年の完成後には陸軍飛行学校も開設されました。その後は多くの飛行部隊が駐屯すことになりますが、終戦も近い昭和20年5月14日に米軍機の爆撃にあい、隣接する陸軍航空通信学校とあわせ36名の犠牲者が出ました。その当時の弾痕を持つ遺構がまだ多く残されています。

格納庫の基礎

 写真左手に並ぶ三角形のような形のものが、飛行機の格納庫の基礎です。コンクリート製の基礎だけが残っているのですが、車と比較してもかなり大きなものです。数十メートル離れた場所にも対になるように同じ基礎が残されています。

格納庫の予想復元図

残っている基礎を元に勝手な想像で格納庫の復元図を描いてみました。矢印で指しているのが基礎です。右端に写っているアパートと比べて、かなり大きなものと思われます。

弾薬庫

 すぐ近くには弾薬庫の建物があります。終戦後に入植者の住宅として使われたとのことで、建物の一部には住居として使われた痕跡が残っていますが、現在は使われていないようです。しかし弾薬庫という性格上小さな窓しかないので、住宅には使いづらかったのではないでしょうか。

高架水槽

 花房飛行場跡の最大の遺構は、この高架水槽だと思います。右隣の2階建ての住宅と比較するとその大きさがわかると思います。この水槽には弾痕がはっきり残っていて、当時の銃撃の激しさが分かります。

 他にも油倉庫や格納庫基礎、部隊営門の門柱などが点々と住宅地の中に残っています。普段の生活で戦争を意識することはありませんが、こうして形として残っている遺構は、戦争の悲惨さを伝え考えさせるには十分な力を持っていると感じました。高架水槽(地図)の直下には花房飛行場全体の地図と説明が書かれた案内板が設置されています。
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