マップ 報告書 掲示板 リンク 雑記帳
このサイトについて お問い合わせ TOPページへ 九州ヘリテージ

九州の近代化遺産・産業遺産を見て・調べて・紹介!するブログ

城山銅山跡

 3月に行なわれた熊本産業遺産研究会の「城山銅山跡見学会」に参加しました。熊本県益城町にある城山銅山は、江戸時代末期から昭和初期まで操業していたといわれ、金山川が造る深い谷に沿って坑口から選鉱施設、精錬所などがありました。また、大正時代には日本窒素肥料株式会社も経営に加わり、最盛期には200名が働くほどの規模があったそうです。

 しかし、現在はそこへ行く道すらない状態。ただ鉱山からは麓まで軌道があったということで、今回は城山銅山に詳しい地元の方の案内でその跡を辿って山中を進みました。

城山銅山跡

 麓にある津森の集落から四輪駆動車で作業道を登っていきます。作業道は軽自動車がギリギリで通れる幅になり、ほどなく行き止まりに。その先にうっすらと“鉱山の軌道跡”が伸びていました。このようなロケーションですので森林鉄道と雰囲気が随分と似ています。所々路盤が崩壊している部分もありましたが、なんと今回案内して頂いた方が事前に藪などを払っておられていたとのことで、実にスムーズに軌道跡をトレースできました。ただ軌道跡とはいえ、レールや枕木などは発見できず残念!

城山銅山跡

 歩き始めて20分ほどで、軌道跡以外にもなにやら人工的な地形が。上の写真はどうしてこのような形になったか分かりませんが、高く斜面に積み重なった鉱滓の山です。森の中を見渡すと、付近には無数の鉱滓の山がありました。

城山銅山跡

 この鉱滓地帯の上側には大きな沈殿槽も。大きさは25メートルプールより少し小さい位でしょうか。写真奥には垂直に立った水槽の壁が見えます。

城山銅山跡

 おそらく選鉱施設や精錬所があったと思われるこの場所には、写真のような石垣が広範囲に残っています。谷あいにありながら、ここだけ広い平場があるので色々な施設があったのかも知れません。

城山銅山跡

 人工的なものは石垣しか残っていませんが、参加者全員で付近を散策してみると湯飲みや茶碗、皿のかけらや、煉瓦や碍子などが見つかりました。

城山銅山跡

 平場から更に数分進むと、軌道跡は山の斜面に消えてしまいます。その斜面を滑落しないよう注意しながら探索すると、このような坑口にたどり着きました。現在確認されている坑口は7か所。ただし本坑なのか試掘坑なのかはわかっていません。坑口はいずれも岩盤むき出しの状態で、一見すると自然の地形に見えることも。しかし内部に入ってみると、それが人の手によって掘られたことがわかります。幾つかの坑道に少しだけ入ってみました。

城山銅山跡

 全ての坑道ではありませんが、このように内部の形状が矩形になっている部分も。坑道内部は足元に堆積物があるためか天井が低く、身長178センチの私でも大部分で直立することは出来ませんでした。

坑木

 ほとんど朽ちて落下してしまっていますが、このように坑木もしっかりと残っています。それにしても強烈なカビ臭とアンモニア臭がミックスされた臭いが鼻を突きます。よくよく足元をライトで照らしてみると分厚く堆積したコウモリの糞に両足が沈んでいます。 

コウモリもパニック、俺もパニック。

 中腰の姿勢で顔を上げると、目と鼻の先にはコウモリがビッシリ。こんなに大量のコウモリに出くわすこともないので、思わず写真に撮っちゃいました(笑)。

 城山銅山で働いていた人々は、麓の集落の人々とは交流がなかったといいます。鉱山の周辺で生活をしていたと考えられますが、まだその住居跡などは見つかっていません。また、鉱山の動力源として水力発電所が作られていたそうですが、そこへも未到達です。まだまだ全体像が明らかになっていない城山銅山跡。これから先にも大発見があるかも知れませんね。研究会のYさん、みなさん、案内して頂いたTさんと弟さん、この度は大変お世話になりました。


 地図はおおよその位置。現場は急な斜面で、現状では非常に危険です。万が一何かあっても、まず人が来るような場所ではないので見学はオススメできません。

【関連サイト】
益城町」> 観光マップ > 城山銅山跡
※観光マップに載せられても…。ガッツのある観光客向きなのかな?
熊本県高等学校教育研究会-地学」> 熊本地質ガイド
※地図中の「益城」をクリック→次ページ地図中の「木山鉱山」と「城山鉱山」をクリック
遺産探訪/鉱山関連 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

尾平鉱山

 大分県豊後大野市の南西部、宮崎県との県境付近の山間に明治以前より採鉱が行われていた金属鉱山である尾平鉱山があります。昭和10年に三菱鉱業により近代的操業が始まり、銀、砒素、銅、錫などの産出も飛躍的に増加。それに伴い従業員も増え、ピーク時の昭和25年には500人を超えたといいます。山間の小さな集落だった尾平は、従業員やその家族などで2000人を超える人々が暮らす“街”へと変貌しました。社宅や病院、学校などだけでなく大資本三菱の鉱山ですので都会の最先端の文化も持ち込まれ、映画などは大分県で一番最初に封切られていたそうです。

 昭和29年、鉱量と品質の低下などが原因で三菱尾平は閉山することに。その後、蔵内尾平鉱山として採鉱が再開されるも昭和34年に再び閉山。現在は2軒ほどの宿泊施設と鉱山廃水処理施設があるだけの静かなところです。

 この尾平鉱山をWeb上で検索すると、多くのサイトに山の急斜面に朽ち果てる選鉱場跡や坑口などの写真を見ることができます。現在も三菱マテリアルの鉱山廃水処理施設が稼動しており、そこの事務所に頼めばそれら鉱山関連施設跡を見学させてもらえることが紹介してあります。それらの情報を知ってからずっと行きたいと思っていて、やっと先月行ってきました。

 県道から鉱山事務所へ向かう入口には「立入禁止・尾平鉱山事務所」の看板があります。その看板にはかすれてはいますが「見学をご希望の方は事務所にお立ち寄りください」とあり、なるほどWeb上の情報の通り。しかし上からペンキで塗りつぶされているようにも見えました。写真は事務所へ向かう道から山の斜面の選鉱場跡を見上げて撮影したもの。手前の赤茶色の山は鉱水処理で出た脱水ケーキ?でしょうか。

尾平鉱山

 三菱マテリアル尾平事務所に到着すると一人の従業員が外へ出てきました。早速見学のお願いすると考えもしなかった意外な返事が。
「見学などの敷地内の立入は事故防止のために全て断っております」
ええ!?話が違う!?遠路はるばるやって来たのに…。話によれば見学を断るようになったのは最近のことのようです。敷地の外でのことらしいのですが、昨年に古い坑口付近で落盤による死亡事故があったとのこと。それで危険防止のために立入を断ることにしたそうです。そういう決まりなら仕方ないですね…。そのまま帰るのもなんですので、ずっと疑問だったことを聞いてみました。この鉱山廃水処理施設は、坑口から有害物質を含む水が湧き出てくるのを中和処理をして汚れも取り除くためのもの。だったら坑口を埋めてしまえば水は出てこないので排水処理もしなくていいのでは?と質問。
「以前に埋めたことがあるのですが、全く違う場所の古い坑口から湧き出たためにもう一度掘りなおして処理を続行することになりました」
この尾平鉱山は三菱が採掘する以外にも数多くの坑口が開かれており、話によれば新旧の坑口をあわせると100か所を越えるとのこと。それら全ての坑口を完全に埋めるのはとても難しいようです。下の写真は付近にある三菱以外の坑口跡。

敷地外にある古い坑口

 さて、尾平鉱山跡へ立ち入ることはあきらめて事務所を後に。せっかくですので周辺の森の中に残る集落跡や廃墟を見て回っていると、山道で子供から老人までいる20人ほどの団体と遭遇。中心にハンドマイクで説明をしている人がおり、皆でその話を聞いています。話を聞いてみると豊後大野市歴史民俗資料館が主催する「尾平鉱山の歴史ツアー」のご一行とのこと。今から坑口を見たり、選鉱場の上まで行くというではありませんか!親切なことに「ご一緒にいかがですか」と。なんてラッキーなんだ(笑)。

 三菱尾平の主力坑だった総延長46キロメートルの「新大切坑口」。現在は不気味な色の水が流れ出てきていますが、当時はトロッコ軌道が通っていました。

尾平鉱山

 坑口から出た鉱石を積んだトロッコは、山の斜面を利用した選鉱場の上部へと向かいます。途中50メートルほどのトンネルを通りますが、内部は坑道を思わせるワイルドな造り。

尾平鉱山

 選鉱場の最上部です。足元は切り立ったコンクリートの壁があり、覗き込むのも怖いくらいの高低差。

尾平鉱山

 選鉱場の脇を通っていたインクラインの軌道跡。写真ではちょっと急な下り坂のように見えますが、実際は恐ろしいほどに急角度で立ち入ることはできません。実際は36度の角度で109メートルの高低差があるそうです。

尾平鉱山

このあと鉱山敷地の外へ戻り、ツアーの一行と別れました。案内説明をしていた方によると、このツアーは2回目とのこと。1回目が好評で申し込み人数が多く、急遽2回目が開催されたそうです。3回目があるのであれば是非最初から参加してみたいものです。このようなツアーが各地で増えるといいですね。
遺産探訪/鉱山関連 | permalink | comments(8) | trackbacks(0)

大築島

 産業の発展と共に大きく姿を変えていき、またその終焉と共に無人となった島といえば“軍艦島”がすぐに頭に浮かぶことと思います。規模こそ違いますが、熊本県の八代海に浮かぶ小さな島“大築島”もそのような歴史を持つ島です。

 大築島は八代海の中央付近に位置し、標高約100mの山を持つ(持っていた)周囲3.8kmの小島です。島全体が良質の石灰岩でできており、明治22年に八代市で操業を始めた日本セメント株式会社八代工場の原料鉱山となります。このときに採掘する従業員と家族が移り、島での人々の生活が始まります。最盛期の昭和30年頃には50世帯約250人が生活しており、小中学校の分校までもありました。

昭和49年の大築島

 昭和49年の大築島の航空写真。運搬船や採掘の様子がわかります(国土交通省国土画像情報サイトの元画像はコチラ)。

 大築島の採掘方法は、坑道を掘り鉱脈や炭層を採掘するのとは違い、島自体がほぼ全て石灰石で出来ているため露天掘りで大地を切り崩していきます。はじめは山の上から切り崩して行くのですが、採掘が進行すると山はなくなり麓の住宅地などにも採掘面が迫ってくることに。そのため昭和36年に従業員とその家族全員が島から八代市へと移住し、大築島は無人へと戻ります。

 その後も石灰石の採掘だけは続き、島は削られ続けその地形を大きく変えていきます。昭和55年7月に、日本セメント八代工場の閉鎖に伴い大築島鉱山も一旦閉鎖しますが、翌月から株式会社飯田工業所大築島鉱山として平成7年まで採掘が続きました。閉山された現在はもちろん無人で、島は一部を除き採掘によって広大な石灰石の平原になっています。

島のほとんどは白い平原になっている

 白い石灰石の大地にも雑草が生えてきています。広大な白い平原はちょっと不思議な光景です。

島の北側の石垣

 島の北側に残る石垣。石灰石の島だけあって石垣までも真っ白です。この位置にはもともとは住宅や分校などがありました。

南側岸壁

 島の南側には石灰石の積み出しや物資の積み下ろしなどに使われた岸壁や施設の痕跡が残っています。一見なにもないように見えますが、他にも過去に使われた採掘方法によるトンネルなどや火薬庫、住宅や建物の基礎も島のあちこちに点在して残っています。石灰鉱山として108年、採掘により大きく姿を変えてしまった大築島は、まさに島全体が一つの大きな産業遺産となっていると言えるでしょう。

 現在、大築島の北側では大規模な浚渫工事が行われており、八代市によって島への上陸が禁止されています。
遺産探訪/鉱山関連 | permalink | comments(0) | trackbacks(0)

天草陶石鉱山

 前回紹介した烏帽子坑を見に、天草市へ行ったときのことです。国道を車で走っていて、あることに気が付きました。道路脇に見える柵などの支柱に、古レールが使われているのです。しかも度々見かけます。レールはJRなどのものではなく、私にとっては馴染み深い森林鉄道などで使われる細い規格のもの。天草に森林鉄道!?意外と山深いから…まさか。いや、もしかしたら炭鉱のトロッコ軌道で使われていたものか?いろんな可能性を考えながら車を走らせていると、道路のすぐ脇に驚きの光景が現れました。なんとレールが敷かれて軌道になっているではないですか!

天草の軌道

 車を降り近寄ってみると、確かにレールが敷かれて軌道になっています。何の軌道なのか気になって仕方ありません。とにかく周辺を観察すると…。

天草の軌道

 驚いたことに一部の枕木に真新しい木材が使われています。即ち誰かが今でも整備をして使っている軌道ってこと。現役の軌道!興奮しつつ枕木から視線を上げると…

天草の軌道

 軌道の先に坑口が!!正体が分からずともこのシチュエーションにはグッときませんか!?久しぶりに正体不明の相手に興奮してしまいましたが(笑)、直後にあっけなくその正体が分かります。

 もう上の3点の写真でお分かりかと思いますが、実は天草陶石の採掘坑道だったのです。周辺に「立入禁止」の看板と共に「岩石採取標識」というものが掲げられており、天草陶石を採取する現役の鉱山だということが分かりました。天草陶石とは磁器の原料になる石のことで、砕いて粉にしたものを練り上げ窯で焼くと美しい白磁になります。天草の陶石は品質も高く、有田焼に使用される陶石の9割はこの天草陶石だそうです。通常、天草陶石は露天掘りで採掘されることが多いようですが、ここのように坑道堀で採掘している鉱山も少数ながらあるようです。

 今回見つけた軌道は、坑道内から採取した陶石をトロッコで運び出すためのものでした。正体がわかりほっとしましたが、実は他にも軌道を使っているものが天草にあったのでは?という疑問も生まれました。なにか機会があれば調べてみたいものです。
遺産探訪/鉱山関連 | permalink | comments(5) | trackbacks(0)

鯛生金山

 大分県日田市(旧・中津江村)にある鯛生金山は、一般観光客が坑道に入ることができる九州では数少ない(他にあったかな?)観光鉱山です。

鯛生金山主坑道

 鯛生金山は明治27年くらいに、この地を訪れた魚の行商人が金鉱石を見つけたことが始まりとされ、明治31年には鯛生野鉱山として採掘が開始されました。大正7年に英国人ハンス・ハンターが経営権を取得し、鯛生金山株式会社として近代的操業を開始します(ハンターは後に大分県の見立鉱山の経営も手がけています)。大正13年に、日本人の手へ経営権が戻った後も金山は増産を続け、それに伴い規模も拡大していきました。

 昭和8年〜13年までが最盛期だったようで従業員数は約3000名、その家族などや関係者を合わせると1万人を超え、深い山間部に一大都市が形成されたそうです。社宅も鯛生側に500戸、福岡県矢部村側に500戸あり、配給所には日用品の他に、都会でも手に入りにくい高級品なども並び大盛況だったといいます。太平洋戦争が始まると、国策として金銀鉱山の休止政策がとられることになります。資材・機器・要員などは、炭鉱などへの配置転換が行われることになり、鯛生金山も寂しい山村へ衰退してしまいました。

 戦後は新会社が設立され操業再開。昭和35年には新たに精錬所も作られなどして復活を遂げますが、昭和40年以降高品位鉱の枯渇により産出量が低下し膨大な赤字が累積していきます。そして新しい鉱脈も発見できなかったことで、昭和47年に閉山となりました。

 閉山後、約70haに及ぶ金山跡地は中津江村(当時)に譲渡されることになりますが、当時の村長の発案により観光坑道として昭和58年に再スタート。現在は道の駅が併設されるなどして多くの観光客が訪れています。

鯛生金山 坑道内部

 見学者にはイヤホン付きのラジオのようなものが貸し出され、それにより坑道内の各展示物にあわせ説明を聞くことができます。

深さ510mの竪抗

 鯛生金山には全部で6本の竪抗があり、見学コースでは深さ510mの第一竪を見ることができます。

第一竪抗の巻き上げ機

第一竪抗は巻き上げ機と共に地下にありますので、地上に竪抗櫓などはありません。

鯛生金山 精錬所

金山の観光施設から少し離れた場所に、精錬所の建物が今も残っています。

 このように鯛生金山は全て観光化されているかのように思えますが、実は全く“観光化”されていないもう一つの顔があります。大分県と福岡県の県境を挟んだ反対側の福岡県矢部村にも鯛生金山はあったのです。下の写真は矢部村にある鯛生金山矢部坑道の坑口。石組みの立派なものですが、周辺は既に森になっており大規模な金山の跡だとは想像もできません。

鯛生金山 矢部坑道

 矢部村側にも中津江と同じ規模の社宅や関連施設が町を形成し、精錬所や大規模な鉱滓堆積場なども複数ありました。また唯一地上からの竪抗があり、竪抗櫓も存在していたようです。しかし、現在それらは全く目にすることはできません。閉山から34年もたち、全ては森や藪に埋もれていると思いますが、私としてはそっちの方に惹かれてしまいます(笑)。そのうち見て回ろうかと考えているところです。

追記:忘れてました。メリークリスマス!
遺産探訪/鉱山関連 | permalink | comments(2) | trackbacks(1)

見立鉱山・英国館

 前回に引き続き、見立鉱山ネタです。この鉱山は1627年にすぐ近くにある大吹鉱山の発見に始まります。大正末期から第二次世界大戦の直前までは、ハンス・ハンターというイギリス人が経営を行っており、その間にイギリスからの最新の技術が導入され近代化されました。同時に多くのイギリス人技師がこの見立にも来る事になり、その技師の宿舎として、またゲストハウスとして建てられたのがこの"英国館"です。


延床面積320平方メートルの木造平屋で、太い丸太が柱や梁に使われていたり、幅広の杉の一枚板が多用されているのが特徴的です。全体の雰囲気としては素朴な山小屋風の建物なのですが、内部にはスチームによる暖房や水洗トイレ、電灯などの西洋の高水準の生活様式が持ち込まれていました。

 現在は日之影町の所有になっており、建物内部に見立鉱山関連の展示物やハンス・ハンターについての展示物があり、入場料300円で見ることができます。ちなみに峠をひとつ越えると木浦鉱山があり、こちらも私としてはかなり気になっています(笑)。しかし、見立も木浦も実に山深いところにありアクセスは容易ではないですね。遠かった…。
遺産探訪/鉱山関連 | permalink | comments(3) | trackbacks(0)

見立鉱山

 今月中旬、宮崎県北部の日之影町に行ってきました。日之影町には私が気になっているモノが3つあり、今回はそれらの事前調査(ただの下見ともいう)です。

 気になっているモノの1つ目は、日之影町を南北に貫く森林鉄道跡です。旧高千穂鉄道日之影駅がある同町の中心部から、日之影川に沿って20数km上流の見立まで続いています。現在は部分的に"トロッコ遊歩道"として整備されて活用されています。


上流部では崩落していたりする場所も多くあり、全線が遊歩道になっているわけではないようです。それでも石垣などはしっかり残っています。

 気になるモノ2つ目は見立鉱山跡。当時のゲストハウスがそのまま残っており"英国館"として公開されていますが、私はその周辺の鉱山関連遺構が気になって仕方ありません。今回は少しだけ山に入り、森に埋もれている選鉱職員住居跡を見てきました。


山の斜面に階段状に石垣が作られ、そこに住居が建ち並んでいました。木々が大きく成長していることに、時間の流れを感じさせます。


大勢の人々が住んできた面影はなにも残っていないようでしたが、足踏みミシンの一部がポツンと森の中に残っていたのが印象的でした。
 この見立鉱山跡については、紹介されているサイトも幾つかあり、また当地にある英国館では鉱山に関する展示物もあります。しかし、坑口に関する情報は英国館に展示されている写真1枚だけで、他に見つけることができません。見立鉱山はゲストハウスや事務所、選鉱社員住居、選鉱場などから坑口が離れており、掘り出された鉱石は索道(ロープウエイ)で選鉱場に運ばれてました。そのため坑口とその周辺遺構を見ようと思うと"山登り"の覚悟が必要のようです。ルートが分かり次第行ってみたいと考えています。

 さて、気になるモノの3つ目。それは森林鉄道と併走して谷合を流れる"日之影川"です。水量は多いのですが穏やかな流れで、とても美しい渓谷を作り出しています。なにより特徴的なのはその透明度の高さです。

日之影川

かなりの水深がある所でも、コバルトブルーの流れの下には川底が見えています。で、当然思うのが「ヤマメがいそうだなあ〜」です。調べてみると結構釣れるらしいので、来シーズンは本格的な"調査"が必要ですね(笑)。
遺産探訪/鉱山関連 | permalink | comments(3) | trackbacks(0)
<< March 2017 >>
SunMonTueWedThuFriSat
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 
最近の記事
九州ヘリテージいち押し!
肥薩線の近代化遺産
肥薩線の近代化遺産
熊本産業遺産研究会
雑記帳でも紹介しています。
最近のコメント
最近のトラックバック
プロフィール
購 読
RECOMMEND
廃墟という名の産業遺産
廃墟という名の産業遺産 (JUGEMレビュー »)
小林 伸一郎,栗原 亨,酒井 竜次,鹿取 茂雄.他
RECOMMEND
RECOMMEND
RECOMMEND
九州遺産―近現代遺産編101
九州遺産―近現代遺産編101 (JUGEMレビュー »)
砂田 光紀,国土交通省九州運輸局,九州産業・生活遺産調査委員会