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九州の近代化遺産・産業遺産を見て・調べて・紹介!するブログ

高千穂あまてらす鉄道と高千穂橋梁

 宮崎県延岡市と高千穂町の50km間を五ヶ瀬川に沿って結んでいた高千穂鉄道。線路は五ヶ瀬川やその支流を何度も渡るために橋梁が多く、その中には東洋一の高さを誇る鉄道橋や、連続するアーチが美しいコンクリート橋などもあり鉄道構造物の見所も豊富です。平成15年にはトロッコ列車が運行され話題となり、私も乗ってみたいと思っていました。しかし平成17年の台風により、路盤や橋梁が流失してしまうなどの甚大な被害を受けて全線運休となってしまいます。そして膨大な復旧費用などの問題が解決できないため、同社による運行再開は断念されることに。

 そこで運行再開を目指し、地元の観光・商工関係者により「神話高千穂トロッコ鉄道株式会社」が設立されます。しかし資金面だけでなく様々な問題(Wikipedia高千穂鉄道参照)が発生。その様な中で平成19年12月に延岡〜槇峰間が廃止決定、平成20年12月には槇峰〜高千穂間の廃止が決まり、ついに全線廃止となってしまいました。現在、高千穂鉄道の設備や軌道などは沿線の自治体が譲り受けています。

 平成20年4月、神話高千穂トロッコ鉄道は「高千穂あまてらす鉄道株式会社」と改名。最終的な目標は“全線復活”としながらも、当面は鉄道記念公園の指定とその管理者への選任を目指すとして、現在は高千穂〜天岩戸間で“遊具”による鉄道運行をしています。

 さて、前置きが長かったのですが、今回はその“遊具”と“東洋一の高さの鉄道橋”を目当てに高千穂町を訪れてみました。

高千穂あまてらす鉄道

 廃止されて間もないためか、Googleマップにもきちんと駅として記載されている高千穂駅。高千穂鉄道の看板もあり、廃止されていることを知らなければ普通に“駅”です。

高千穂駅

 現在、高千穂駅構内は「高千穂鉄道みに公園」として公開。入場するには駅の窓口で環境整備費として100円を支払います。

高千穂あまてらす鉄道

高千穂鉄道の車輌は譲渡されたり解体されたものもありましたが、車庫には2輌が展示保存されていました。

高千穂あまてらす鉄道

 車輌は運転席など内部も公開されていますが、点検用のピットにも潜り込めるようになっています。ここで初めて鉄道車両のディーゼルエンジンを間近で見ましたが予想以上に大きくて驚きました。でっかいターボもついていましたよ。

スーパーカート

 そして本日のメインイベントが、この“スーパーカート”に乗ることです。高千穂駅から隣の天岩戸駅までの2.2km区間を約25分で往復します(料金は700円)。“遊具”だと思っていたら意外としっかりした造りになっているこの車輌。実は「スーパーカート」という商品名で、鉄道の保守点検用に作られ販売されているものです。東光産業株式会社製で、ホンダの160cc汎用エンジンを搭載しMAX25km/hだそうです。乗車定員は4名。上の写真はスーパーカート2輌が連結されています。


 運転は係りの方が1人付いてくれます。このようなカートを運行するにあたり法的にはどうなのかと思い尋ねたところ、施設を所有する町の許可と車の運転免許があればOKだということでした。

 それにしてもこのスーパーカートの乗り心地は最高。とても小さな車体で、乗員を囲むものは何もありません。小さなイスに腰掛けて前方の棒を握るだけ。それで20km/hくらいで線路を走るわけですから想像以上にスピード感があります。遊園地の乗り物よりスリリングかも。何より普通の鉄道の線路を、このような乗り物で走れることが面白いですね。

※上記の動画は編集して行程を短くしてあります。

天岩戸駅のスーパーカート

 高千穂駅を出て約10分で天岩戸駅に到着。途中には橋梁やトンネルもあり、また風景も変化に富んでいてあっという間に到着したという感じです。

 この天岩戸駅の直ぐ先に、かつて“東洋一の高さの鉄道橋”を謳われていた高千穂橋梁があります。(上写真は高千穂駅方面を向いて撮影)

高千穂橋梁

 ここではカートを降り、係りの方の説明を聞くことができます。高千穂橋梁は上写真のように柵が造れており、現在は通行や立入はできません。「ここをスーパーカートで通行できたら面白いのに」と尋ねてみると、「橋の上では下から吹き上げる風が強くてカートの様な軽い車輌は危険なので通行できない」とのことでした。

高千穂橋梁

 高千穂橋梁は1972年の国鉄高千穂線日之影〜高千穂間開業から供用開始。下を流れる岩戸川からの高さは105m、三連の上路ワーレントラス橋で構成され全長は352.5mあります。(上の写真は南側にある国道218号の雲海橋から撮影)

 ちなみに現在、この高千穂橋梁も高千穂町の所有になっています。今後の活用方法など、具体的なことは決まっていないとのこと。維持に多額の費用がかかるのは容易に想像できますが、カートを通す対策をするなり、歩道とするなり何らかの活用方法が見つかって欲しいものです。

高千穂橋梁

 県道237号から農道へ少し入ると、真下から見上げることができます。

岩戸川と高千穂橋梁

 高千穂橋梁の北側で岩戸川を渡る、県道237号の鹿狩戸橋から撮影。谷底の岩戸川も見え、高千穂橋梁の高さも際立ちます。


 左側のマーカーはスーパーカートが発着する高千穂駅。一番右端のマーカーが高千穂橋梁で、その左隣が天岩戸駅。

 スーパーカートは今年(平成22年)の夏休み限定でのイベントでしたが、来年3月まで延期されるとのことです。運行についての詳細は以下の公式サイトでご確認ください。

【関連サイト】
高千穂あまてらす鉄道株式会社

【関連記事】
「雑記帳:高千穂鉄道の現在
「雑記帳:気になるニュース2題
「雑記帳:第一白川橋梁
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折尾高架橋

 久しぶりのブログ更新です。もう更新のやり方を忘れかけていましたよ(笑)。いろいろと忙しかったのですが、ネタも随分と溜まってきておりますので簡単にでもこれからUPしていきたいと思います。

 さて、以前から行きたくて行っていなかった場所のひとつに、折尾駅(福岡県北九州市)がありました。大正5年竣工の木造駅舎で、当時の面影を随所に残しているだけでなく“日本初の立体交差駅”といわれるだけあり、駅構内の通路、地下道、橋台などには多くの煉瓦構造物を見ることができます。さらに駅周辺には煉瓦の3連アーチの高架橋が2つあり、そのうちの一つにはとても珍しい“ねじりまんぽ”まであります。

 見所満載の折尾駅周辺ですが、「JR鹿児島本線等折尾駅付近高架化事業」や「折尾地区総合整備事業」という再開発が始まり、大きくその景観が変わろうとしています。そんな中「9月末に煉瓦アーチの解体工事が始まる」という情報をキャッチ。加えて当サイトの掲示板にも9月末の解体を知らせる書き込みを頂きました。そこで慌てて見に行くことに。


 上記Googleマップは現在のJR折尾駅周辺。左上側の青マーカーは折尾駅舎、中央赤マーカーが9月末に解体が恥始まる煉瓦3連アーチ。右下側の青マーカーがねじりまんぽがある煉瓦3連アーチ。なぜ二つの煉瓦3連アーチが少し離れてあるかというと…。

昭和49年の折尾駅周辺

 上記空撮は同じ折尾駅周辺の昭和49年の様子。国鉄折尾駅の上側を左右方向に横切るのが鹿児島本線で、上下方向に貫くのが筑豊本線。そして写真右下から中央へ伸びてきているが西鉄北九州線になります。写真中央に西鉄北九州線の折尾駅があるのですが、その直前に鹿児島本線と筑豊本線を結ぶ短絡線が横切っているのがわかります。それを越える為に、西鉄北九州線折尾駅とその周辺部分は煉瓦アーチを主体とする高架橋の上に作られました。

 国鉄への乗り換えの利便性を少しでも高めようということでこのような形になったと思うのですが、大正3年にここまでやってしまう西鉄(当時は西鉄の前身会社の一つの九州電気軌道)ってスゴイですね。しかし、西鉄北九州線の折尾-黒崎間は平成12年に廃止。翌年には短絡線上に架けられていたプレートガーダーは撤去されているため、上記Googleの空撮には写っていません。

折尾高架橋

 それでは現地を見て行きましょう。まずは“ねじりまんぽ”がある方の3連煉瓦アーチです。上写真は北側から見た3連アーチ。一番左側のアーチだけが“ねじりまんぽ”になっており、今回その価値が認められ解体は免れています。

折尾高架橋

 俯瞰で見ると高架の上部は緑の草に覆われていますが、そこに線路があったことが想像できますね。左手奥は築堤になっていて、現在は駐輪場として活用されています。また写真右手に見えている線路が鹿児島本線と筑豊本線を結ぶ短絡線で、以前はここにプレートガーダー橋が架けられていました。3連アーチの右端が橋台の形状になっているのがわかりますね。

折尾高架橋

 それではいよいよ“ねじりまんぽ”を見てみましょう。上写真は南側から見たもの。アーチ部分の煉瓦が“ねじり”ながら積まれているのがわかるでしょうか。

折尾高架橋

 ねじりまんぽとは、通常の煉瓦のアーチとは煉瓦の積み方が違います。線路と道路が直角に交差するのであれば通常のアーチで問題ありません。しかし線路と道路が斜めに交差する場合、普通の煉瓦の積み方では構造的にアーチを保つことができません。そこで編み出されたのが煉瓦をらせん状に角度をつけて積み上げてアーチを構成する“ねじりまんぽ”という方法です。(全く分かり辛い説明でスミマセン(汗))

 私がねじりまんぽを見るのはコレで3つ目ぐらいですが、ずっと見上げていると目が回りそうになるのは気のせいかな。でも実物をみるとやっぱり不思議ですね。こんなの煉瓦をどうやって積んだのかと(笑)。

折尾高架橋

 高架の上部を隣接する駐輪場から撮影してみました。煉瓦で囲まれた四角の範囲にぽっかりと草原が広がる不思議な光景になっています。その草原の先に目を向けると…

折尾高架橋

 「用地内立入禁止」の看板と、その向こうに見えるグレーの鉄板の間には短絡線が通っています。そのグレーの鉄板の向こう側が西鉄北九州線の折尾駅跡です。駅の屋根の一部が残っていますね。

 さて、ここからは取り壊される方の煉瓦アーチを見てみましょう。今回解体が決まっているのは西鉄北九州線折尾駅跡の煉瓦高架橋と隣接する駅ビルです。

折尾高架橋

 コンクリートのビルに取り込まれるような形になっていますが、煉瓦の3連アーチが残されているのがわかります。上写真の、一番手前のアーチを反対側から見てみたものが下の写真。

折尾高架橋

 ビルの中に作られた通路のようになっており、煉瓦高架橋と後の時代に造られた駅ビルが一体化しているのがわかります。

折尾高架橋

 接合部分はこんな感じ。ぴったりとくっついているようですが、切り離して煉瓦アーチだけ保存することは可能ではないでしょうか。新聞報道では「ビル解体時の振動で壊れる危険がある」という理由で一緒に解体されるようです…。

折尾高架橋

 この駅ビル側の3連アーチ、実は駅ビルが建設される昭和60年までは6連でした。駅ビル建設の際に3連が解体されて今の形になったもので、上写真の様にアーチが続いていた痕跡も残っていました。

 しかし、この記事を公開した時点ではもう解体されているかも…と思うとなんとも残念です。

【関連サイト】
ALL-A blog」 > 「折尾高架橋01」「折尾高架橋02
ALL-A」 > 「折尾高架橋
asahi.com」> 土木遺産 「保存を」

【参考文献】
北九州の近代化遺産」北九州地域史研究会/編・弦書房
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大池変電所、購入できます。

 昨年、開業100周年を迎えた熊本電気鉄道株式会社。熊本県で唯一の私鉄であり、また軽便鉄道から生まれた会社としては、現存する全国唯一の会社として知られています。昭和61年に路線のおよそ半分にあたる御代志〜菊池間が廃止となりますが、長年にわたり熊本市と菊池市を結んでいたため、地元では「菊池電車」または「きくでん」と呼ばれ親しまれています。

 その廃止区間の路線沿いにある「大池変電所」跡が売却されることがわかりました。大池変電所は以前この雑記帳でも紹介いたしましたが、変電所としては珍しい大型の木造建築。昭和19年に使用認可され、御代志〜菊池間の廃止後も昭和63年まで稼働していました。

大池変電所


大池変電所

 昔の小学校の体育館といった趣。入口の大きさから全体の大きさが想像できると思います。

大池変電所

 閉鎖後は現在まで熊本電鉄の倉庫として使用されていますが、いたずらなのか窓ガラスは割られ外壁の傷みも目立ってきています。

大池変電所

 屋根瓦はきちんと手入れをしているとのこと。見た目もしっかりしており雨漏りなどはないようです。

大池変電所

 変電所としての機器・設備は何も残ってはいません。それにしてもこの小屋組は迫力がありますね。

 今回の「大池変電所跡の建物・土地を売却」という話は、熊本電鉄の不動産部門の方から直接聞いたものです。その中で「折角なら特徴のある建物を活かした使い方をしてもらいたい」という話題になりました。これには私も同感というか、この建物が上手に活用されのこされる事を祈らずにはいられません。県の有料公園施設に隣接している立地ですが、国道から一歩入った所で緑に囲まれた静かな場所です。広さもあるのでカフェやレストラン、ギャラリー、ショップなどとしてリノベーションしてもステキかも。

 ちなみに敷地は1,520平方メートル、建物は178.2平方メートルで築66年。「是非この変電所跡の建物を修復して使いたい!欲しい!」という方は下記へ。
熊本電気鉄道株式会社 不動産事業部 電話096-343-2055

【関連記事】
「雑記帳・熊本電鉄大池変電所

【参考・関連サイト】
熊本電気鉄道株式会社」> 100周年記念サイト
熊本電気鉄道 - Wikipedia
きくち電車クラブ
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キリンビール福岡工場 引込線跡

 大刀洗平和記念館の場所をGoogleマップで確認していた時、偶然気付いたある線形。甘木鉄道太刀洗駅から甘木駅方向へ500mほど進んだ地点から南へ分岐する“いかにも引込線”のような線形を見つけました。


 地図では何も表記はされていません。しかし航空写真でみると甘木鉄道から分岐した線形は南側にあるキリンビール福岡工場へと続いています。もしかして旧陸軍大刀洗飛行場時代の引込線跡?などと思いながら、とりあえずいつもの「ウェブマッピングシステム」にて昭和56年の太刀洗駅周辺の航空写真をチェックしてみると…。

昭和56年の太刀洗駅とキリンビール福岡工場周辺

 見事に甘木鉄道(当時は国鉄甘木線)から引込線が分岐しており、途中にある国道500号線の上を越えてキリンビール福岡工場の内部へと線路が続いているのが確認できました。オリジナルサイズの上記航空写真を見てみると、工場内の線路上に貨車が連なっているのも確認できます。太刀洗駅の少し手前に写っている何両も連なった列車は、ビールを満載し工場を出発したばかりのものなのかも。

 さて、大刀洗へと出かけた当日、平和記念館の見学を終えたあとに引込線を探索することに。まずは位置が確認しやすいと思われる引込線と国道500号線が交差するポイント(下写真のA地点)へ向かいました。ところが様子が少し変です。

昭和56年のキリンビール福岡工場引込線

 なんと国道500号の南側は巨大な物流センターになってしまっており、工場までの引込線の築堤などは全く姿を消しています。Googleマップには物流センターは写っていませんので、最近になって建設されたようです。仕方ありませんので現存している部分だけでも見てみようと、A地点から引込線の分岐点(D地点)を目指し軌道跡をトレースしてみました。上写真のA〜Dポイントにて、矢印の方角で写真を撮影しています。

A地点

 ■A地点。この道路の上を引込線が横切っていました。左手は物流センター建設により築堤も無くなっていますが、右手には築堤と橋台がそのままの形で残っています。

キリンビール福岡工場引込線の築堤跡の上部

 築堤の上に上ってみました。レールや枕木こそは残っていませんでしたが、バラストがきれいに敷き詰められており、そこが軌道跡であると確認できます。

B地点

 ■B地点。畑の中にポツンとあります。

C地点

 ■C地点。こちらも畑の中にあります。軽自動車が通れるギリギリのサイズだと思うのですが、いずれも路面には雑草が生えて最近は自動車の行き来もないようです。

甘木鉄道の車輛が見える

 再び築堤の上へ。築堤も低くなってきたとこで、前方に甘木鉄道の車輛が走っているのが見えました。

D地点

 ■D地点。最後は藪になって分かり辛いですが、この地点で甘木線と合流していたようです。昭和56年の航空写真では、この地点から太刀洗駅までは引込線が並走している様子がわかります。

 太刀洗駅は昭和14年に国鉄甘木線の駅として開業。当時、駅周辺には陸軍太刀洗飛行場や多くの軍関連の施設があり、航空機製作所や陸軍運輸部にはそれぞれに引込線が作られて駅へと接続されていました。そのため太刀洗駅には側線が多く、島式ホームへは地下通路までも作られています(前回の記事参照)。

しかし、今回の引込線はまったく別の時代のものです。昭和41年(1966)に太刀洗駅の南側にキリンビール福岡工場が操業を開始。その工場への原料と製品の輸送を目的にこの引込線はつくられ、昭和59年(1984)まで使われていたそうです。廃止になった理由としては他の引込線と同様にトラック輸送への切替だと思いますが、意外と近年まで使われていたのには驚きです。ところで、この引込線にはどんな貨車が走っていたのでしょう。貨車いっぱいに詰まれたビール…、想像してしまいますね。
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鴨猪谷の廃集落

 最近なかなか遺構探訪にも出掛けられず、正直ネタ不足に陥っています。紹介するタイミングを外してしまった過去ネタがあるにはあるのですが、忙しさもあって更新も滞っております。そんな中、どうにか渓流釣り(スミマセン)に行ってきたのですが、そこで意外というか面白いものを見つけましたのでご報告を。

 ヤマメやイワナを対象とした渓流釣りは“足で釣る”と言われるように、渓流を上流に向かって歩きながら釣り登って行きます。ヤマメやイワナは警戒心が非常に強く、同じポイントに何匹もいる訳ではないので、ポイントを常に移動しなければなりません。そのため、周囲に道もない山深い渓谷の中を何時間も上流に向かって歩くことはよくあります。

 そんな渓流釣りをもう何年も続けているのですが、時に「なぜこんな所に!?」という遺構を見つけることがあります。およそ渓流釣り師くらいしか立ち入らないような人里からも道路からも遠く離れた谷底に、石垣が築いてあったり橋や建物の基礎と思われる石組みがあったり。

 そんな中、今回の釣行で遭遇した遺構は私の渓流釣りの経験の中では最大規模のもの。更にはその場所が重要なポイントで、なんと内大臣森林鉄道鴨猪谷支線の足元を流れる鴨猪川を遡行していての発見です。

 鴨猪川は数年前に“沢登り教室”で訪れて、多くの森林鉄道遺構を発見。そしていかにもヤマメが棲んでいそうな渓流でしたので、いつか釣りに来ようと思っていた訳です。

鴨猪谷の軌道?道路?の遺構

 “沢登り教室”で訪れたときより数キロ下流から入渓。川に沿って林道が走っているのですが、その対岸にこのような石垣を発見。石垣上はフラットで車道のようにも見えますが、実際は歩道ほどの幅しかありません。枕木やレールもなく、軌道でもないようです。おそらく林道が整備される前に人道として作られた道なのでしょう。

鴨猪谷の廃集落

 そして驚いたのがこの集落遺構。なんと建物も現存しています。残されている基礎部分にコンクリートが使われているのも見られるので、それほど昔のものでもないようです。

鴨猪谷の廃集落

 今までは大きくても家一軒分の基礎を見つけるくらい。しかし、ここではかなり広範囲に造成されているようで、建物の基礎も数多く見つけました。集落と呼ぶには十分な数の家が建っていたと想像できます。

鴨猪谷の廃集落に残る廃墟

 中にはまだ形を留めている建物も。ぐるりと周囲を回ってみて、崩れた入口から内部を覗いてみると…。

鴨猪谷の廃集落に残る廃墟

 間取りは1DK、トイレ、五右衛門風呂、キッチンは土間で竈付きといったところでしょうか。台所には鍋や食器など生活道具も数多く残っていました。

鴨猪谷に残る廃墟

 部屋の中にはミドリの十字が。ヘルメットなども散乱していたので、林業関係で近年まで使われていたのかもしれません。

 この廃集落から鴨猪川を挟んだ対岸に、内大臣森林鉄道鴨猪谷支線が通っています。現在は林道となり車ででも通行は可能で、私も過去の探索で何度も通っていました。ただ、橋などの痕跡も無く、対岸からは木々で隔てられていたために長い間気が付かなかったのでしょう。

 鴨猪谷支線には幹線同様に営林事業所が設置されており、その鴨猪谷事業所の痕跡は更地として残っています。そこからこの廃集落までは川を挟んでいますがさほど距離はないので、おそらく事業所で働く人々とその家族が生活していた集落なのではないかと考えています。森林鉄道関連遺構の探索エリアは“線”になりがちですが、少し幅を持たせた“面”で探してみるのも大切だと感じた一件でした。

【関連記事】
雑記帳・内大臣森林鉄道鴨猪谷支線未踏査区間
報告書・内大臣森林鉄道・鴨猪谷支線

【関連サイト】
内大臣 緑川スペシャル
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人吉機関区転車台とSL人吉

 熊本-人吉間を蒸気機関車“SL人吉”が走りはじめて三か月が経ちました。各方面から「本(肥薩線の近代化遺産)を片手に肥薩線を見てきたよ」とか「SL人吉を見に行った」、「乗ったよ」などのお話を頂いていたのですが、私自身まだ“SL人吉”に乗るどころか見てもいませんでした。“SLあそBOY”として豊肥線で活躍していたころは、沿線に住んでいたこともあってよく走っている姿を見ていたのですが、“SL人吉”として生まれ変わった58654号はどんなものなのか。また人吉機関区の石造車庫や転車台が実際に蒸気機関車で使われる光景も見たくて、SL人吉が運行される日曜日に人吉駅まで出掛けてみました。

人吉機関区車庫とSL人吉

 14:39発で熊本へ向かうSL人吉。その少し前に人吉駅へ行けば機関車庫に入っている姿や、転車台で向きを変える光景を見ることができます。予想はしていましたが、周囲にはカメラを構えた大勢の人が。

人吉機関区車庫とSL人吉

 この状態ではSLの頭は熊本駅とは逆の方向を向いています。SL人吉は一旦車庫を出て、ポイントを切替え後退して転車台へと入ります。SLを見に来た人々もそれに合わせて転車台前へと移動。ちなみに現地では“人吉鉄道案内人”の方々がガイドとして案内されていました。

人吉機関区転車台とSL人吉

 今まで幾つかの転車台を見てきた私ですが、現役のモノ、しかも稼動している姿を見るのはこれが初めて。大きな蒸気機関車が回転する訳だからさぞ迫力があるかと思いきや、意外と静かに回転を始めました。転車台は電気モーターが動力なのですが、実に静かに「ガタン」と音を出すことも無くスルスルと回転していきます。

 回転する姿をビデオ撮影する人もいましたが、私は動画を撮影できない一眼デジカメで撮影。でも写真からパラパラアニメを作ってみました(笑)。ご覧になりたい方はコチラをどうぞ。次は動画が撮影できるデジカメを持って行こう。

人吉機関区転車台niSL人吉

 あっと言う間のショータイムといった感じでしたが、間近で見学できるように配慮されているのも素晴らしい。今度は走っている姿でも撮影してみたいな…、いや、その前にまずは乗って肥薩線の旅を楽しみたいものです。 
 

 見学はJR人吉駅北側の道路から。くれぐれも軌道敷内には立ち入らないように注意してください。転車台はJR九州の敷地内に入らないと見ることができませんが、案内係りの方の指示に従って正面まで近づくことができます。

【関連記事】
雑記帳・人吉機関区車庫

【参考・関連文献】
肥薩線の近代化遺産
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内大臣森林鉄道 支線探索

 九州ヘリテージ開設以前から(断続的に?)続いている、森林鉄道の現地探索。過去のレポートでも紹介していますが、九州には多くの森林鉄道があり、その最深部には多くのレールがそのままに残されている場合があります。道もなく誰も行くことのない山奥の森の中に、今もなお軌道がそのまま存在している事実に衝撃を受け、すっかりその魅力に取り付かれた私。機会があるごとに森林鉄道の痕跡を辿り、探し続けています。

森林鉄道とは?
山奥で伐採した木材を運び出すための鉄道。明治末期から全国の木材産地で活躍するが、林道の整備とトラックの普及により昭和40年代に姿を消すことになる。

内大臣森林鉄道 鴨猪谷支線の軌道
内大臣森林鉄道 鴨猪谷支線に残る軌道
過去のレポートより)
 今回のネタは、当サイトでもおなじみ内大臣森林鉄道の新たな支線の調査です。と言っても今は6月。遺構探索や廃線トレースと同じく、森林鉄道もこの時期は藪が酷くて本来はオフシーズンです。今回は次シーズンのための事前調査という意味合いで、未踏査だった内大臣森林鉄道の西内谷支線と北内谷支線の入口を探してみました。

 この2つの支線は関連書籍などでもほとんど紹介されていませんが、いくつかの情報から確実に存在していることは分かっていました。しかし、何度か現地へ行ったものの内大臣森林鉄道幹線からの分岐点がはっきりせず、支線の入口が分からずにいました。そこで探索の方法を思いっきり変えてみることに。

 森林鉄道の軌道は、ほとんどが谷底の川(渓流)に沿った位置に作られています。地形的にも川に沿ったほうが工事も無理がないのでしょう。だったらその川を遡れば、軌道も見つけ易いはず。森の中をただ彷徨うだけより、軌道を発見する確率は高いはずです。オフシーズンの今、あえて森林鉄道探査をする理由が、その“川を遡る”探索方法だったのです。冬では凍えてしまいますが、この時期なら川に入っても気持ちいいくらい。今の時期でなければできません。

 川、特に山奥の渓流を登っていくことは、危険が伴うためそれなりの技術と経験が必要です。そう思い“沢登り教室”に参加したのは3年前。それから今日まで、何本もの渓流を何度となく登ってきました。実は私の趣味がヤマメ釣りだと言うこともありますが(笑)、数々の渓流を登ってきた経験をもうひとつの目的に役立てる時が来た訳です。

 前置きが長くなってしまいましたが、まずは西内谷支線を探索。幹線からのおおよその分岐点は見当がついていましたが、軌道がどこを通っていたかは皆目分からず。しかしそこには渓流が流れていますので、早速川へと入り登り始めます。いきなり大きな砂防ダムが行く手を阻みますが、脇の崖には渓流釣師達が登ったであろう痕跡が。それに従い崖を登り、コンクリートの砂防ダムを乗り越えてみると…

内大臣森林鉄道 西内谷支線

 なんと!そこには見事に軌道が通っていた地形が現れました。写真ではちょっと分かり辛いかと思いますが、右側の一段上がった部分が奥の方まで一定の高さで続いているのがわかりませんか?路盤は流れに洗われたのか、レールや枕木の類は一切残っていませんでした。

内大臣森林鉄道 西内谷支線 石垣

 少し先に進むと、このような石垣も出現。今年は雨が降らなかったせいか、沢の水量は少なく遡行は楽チン。

内大臣森林鉄道 西内谷支線 橋台と橋脚

 さらにはコンクリート製の橋台と橋脚も発見。軌道は大きくカーブして川を渡り対岸へ。西内谷支線の今回の探索はここで終了。確かに支線が存在していたことがわかり一安心です。続きは今年の冬にでも本格的に辿ってみたいですね。

 もう一方の北内谷支線は、内大臣森林鉄道の中でも最奥の山奥にある支線です。現在の地形図で確認すると、軌道跡と思われる線形はほとんど林道(車道)になっていますが、何らかの痕跡を期待して現地へ。

内大臣森林鉄道 北内谷支線 レール

 川沿いの軌道跡と思われる部分は林道になっていましたが、川の中で森林鉄道のレールを発見しました。もしかしたら林道からはずれた部分に軌道跡が残っているのかもしれません。

 今回の“支線の入口を探す”という探索は、まずまずの成果が得られと言っていいでしょう。今年のシーズン到来が楽しみです。

【関連記事】
報告書・内大臣森林鉄道 幹線
報告書・内大臣森林鉄道 鴨猪谷支線
雑記帳・内大臣森林鉄道 鴨猪谷支線未踏査区間

【関連サイト】
内大臣 緑川スペシャル
ウィキペディア・森林鉄道
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六五郎橋の謎

 福岡県と佐賀県の県境を流れる筑後川に、9連の曲弦ワーレントラスをもつ長さ450mの六五郎橋があります。

六五郎橋 全景
六五郎橋全景 筑後川下流(南)側から撮影

 久留米方面から佐賀市方面へ向かう際に、カーナビの案内により初めて渡った橋で、その時は随分と錆びてくたびれたトラス橋だなと思っただけでした。しかし二度目に渡ったとき、途中でトラスが変わることに気が付きました。同じトラスが9つ並んでいるのでなく、二種類のトラスがあるのです。

六五郎橋 入り口(西側)のトラス

 上の写真は橋の入り口(佐賀県側)にあるトラスです。錆びてはいますが端柱や上弦材などは太い鋼材で構成されており、特に古さは感じさせません。

六五郎橋 中央の5つのトラス

ところが…。橋を渡り始めると3つめのトラス橋(上写真)から、細い部材をリベットで組んだ実に古そうな造りになります。

 9連のうち、橋の入り口にあたる両端の4連は同じタイプ。中央部分の5連がこのリベット組みの古そうなトラス橋になっています。

六五郎橋 中央の5つのトラス 部分拡大

 細部の造りを見てみても、かなり古いトラスであることが予想できます。これはもしかしたらお宝かも!?なんて思ったりもしましたが、橋の途中ですので車を止めてゆっくり見物もできません。オマケに橋の両端には信号があり、交通量も多いことから「そのうち見に行こう」ということに。

 帰宅し早速「六五郎橋」についてWeb上で調べてみると意外な結果が。橋の管理者である国土交通省九州地方整備局筑後川河川事務所のWebサイトをはじめ、どのWebサイトにも六五郎橋は1966年に完成したとあります。随分古いトラスだと思っていただけに、かなりがっかりな結果です…。

 しかし、2種類のトラスが共に1966年完成とは限りません。再び現地を通るチャンスがあったので、それぞれのトラス橋に銘板を探してみました。まずは橋の入り口部分にあるトラス(両端で4連分)をチェック。

六五郎橋 両端のトラスの銘板

1966年3月
福岡縣佐賀縣建造
建示(1955)2等橋
製作 松尾橋梁株式会社
材質SM50.SS41
 銘板はわかりやすい端柱にあるので、すぐに見つけることができました。やはりWeb上で調べたとおり1966年製であるようです。

 では、六五郎橋中央部の古そうな5連のトラスはどうでしょうか…。こちらも端柱のわかりやすい場所に銘板を発見!その中身は…

六五郎橋 中央のトラスの銘板

↑少々わかりづらいので部分拡大↓

六五郎橋 中央のトラスの銘板(拡大)

昭和25年(1950)
福岡縣 佐賀縣 建造
鋼道路橋 第2種
製作施工 松尾橋梁株式会社
 やっぱり!こちらのトラスは1966年製ではありません。思っていたほど古い時代のものではありませんでしたが(実は結構ガッカリ)、中央部分の5連は1950(昭和25)年製で、両端のトラス4連より16年も古いものでした。

六五郎橋 全景

 しかし、なぜ1966年完成の六五郎橋に1950年製のトラスが?という疑問が出てきました。橋を製作施工した松尾橋梁株式会社の実績データベースに六五郎橋に関する記録があり、それによると1950年と1964年に製作され、1966年になって架設されたようにも読み取れます。しかし16年という歳月は橋の工期としてはあまりも長いのでは?それとも1950年には六五郎橋は完成していて、1966年に両端のトラス4連だけが架け替えられたのでしょうか。製作から完成年まで16年の開きが謎となってしまいました。


 このような疑問は管理者に問い合わせればすぐに正解が得られるものですが、あれこれ考えるのも楽しいものです。で、正解なのですが…まだ問い合わせていないんです(笑)。

※六五郎橋は道幅6mと狭く、時間帯によっては非常に自動車の交通量が多いので、歩いて立ち入るのはとても危険です。すぐ隣に平行して架けられている歩道橋から安全に見ることができます。

【関連・参考サイト】
筑後川河川事務所」> 学ぶ・調べる > 土木施設 > 筑後川の橋 > 六五郎橋
筑後川(Wikipedia)
よかとこBY」> 天建寺橋と六五郎橋
松尾橋梁株式会社」> 松尾が架けた橋 > 橋梁実績データベース > 九州・沖縄/福岡県
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JR多久駅の鉄橋群

 佐賀県のほぼ中央に位置する多久市。かつては三菱・立山・明治などの炭鉱で大いに栄えていました。以前、同市東部に位置する三菱古賀山炭鉱の竪坑櫓を紹介しましたが、その際にいただいたコメントやメールなどで他にも多くの炭鉱遺構が残されていることを知りました。早く行かなきゃ、と思いつつ今回も随分と時間が経ってからの探索に…。

 まずはJR唐津線にある多久駅周辺から遺構探索をはじめようと、駅へと向かいます。多久駅の東側にある踏切を渡ると随分と新しい駅舎が…。後で調べて知ったのですが、多久駅周辺は1994年から進められた土地区画整理事業により大きく変化してしまったようです。現在の駅舎は2008年1月に完成し、周辺に広がる更地は旧駅舎や軌道の跡地とのこと。駅周辺には古い町並みもあったようですが、残念ながらそれも無くなったようです。

 下の写真、左側に真新しい軌道と駅舎が見えます。そして、右側の空き地には元々線路があったことが想像できます。ん?なにか見えませんか?

多久駅の北側

 二つの突起が転車台にも見えてびっくりしましたが、よく見てみると橋が
あるようです。更地は立ち入り禁止でしたので、周囲の道路を使って回り込んでみました。

山犬原川橋梁

 真横から見てみると、煉瓦の橋台に橋脚、そしていかにも古そうなプレートガーダ橋が!しかも4本もあります!どうやら旧軌道で使われていた橋のようです。

山犬原川橋梁

 近づいて細部を観察。4本のプレートガーダ橋はいずれもリベットで組まれて古さを感じます。

山犬原川橋梁

 同形状の上路プレートガーダが3本あり、それぞれに銘板が残っていました。銘板には「鉄道省」と「大正十年」の文字が読み取れます。これって結構なお宝では!?(私にとってですが・笑)

山犬原川橋梁

また塗装記録もそれぞれの主桁にペンキで書き残されており、それによると正式名称は「山犬原川橋梁」ということ。3つの橋とも同じ名称でした。

 そして最後の1本。他の3本とは明らかに規格が違うもの。高さも違えば主桁の幅(間隔)も倍以上に広くなっています。さらに他の橋が緑色で塗装されているのに対し、このガーダ橋だけ赤色です。下写真の奥に見えているコンクリートの橋が現在の軌道。

山犬原川橋梁

 また橋台と橋脚にも違いが見れます。他の3つが煉瓦であるのに対し、これは石積み。橋長が他の2倍あるため、中間に橋脚も持たず川を一跨ぎしています。

山犬原川橋梁

そして間隔の広い主桁の間には、横方向に構造材がほとんどありません。これだと軌道を支えることができないはずです。一体何なのか…。考えながら主桁を眺めていると銘板を見つけました。

山犬原川橋梁

 え〜と、なになに。アルファベットだけで“鉄道省”などの文字はみえませんが、…4桁の数字を見つけました。え!?1890!?

山犬原川橋梁

 確かに1890ってあります。ということは、この橋は1890年(明治23年)製造!!なんと119年前に作られたプレートガーダ橋ということ。これにはビックリです。今まで1900年代の刻印は見たことがありましたが、私にとって1890年代のものは初めて。この思いも寄らぬ出会いには驚きました。

PATENT SHAFT &
AXLETREE CO LD
ENGINEERS
1890
WEDNESBURY
 銘板によると、この橋はイギリスのパテント・シャフト・アンド・アクスルトゥリー社により1890年に製造されたということ。遠いイギリスからよくぞ持ってきたものです。しかも119年もの昔に。

山犬原川橋梁

 隣には、他の橋と同型の煉瓦の橋台だけが一対残っています。川の中央にあるはずの橋脚は取り壊されたようで、基部の煉瓦だけが残っていました。上写真は現在の軌道であるコンクリート橋の下から撮影しています。

山犬原川橋梁

 ところでこの用途不明のプレートガーダ橋ですが、地図や昔の航空写真を見てみると答えが見えてきました。

昭和56年の多久駅

 上の航空写真は1981年の多久駅。軌道が数本通る中に島式のホームが見えますが、矢印のところで写真上から下へと抜ける川を横切っているのがわかります。写真の位置から見ても、この1890年製のプレートガータ橋は線路でなくホームを支えていたと考えることができないでしょうか。う〜ん。ホームを支えるプレートガータ橋というのは面白い!工事関係者や地元の方に話が聞ければ早いのですが、あれこれと推測するのも楽しいものです。多久駅が開業したのは1899年(明治32年)ですので、もしかしたら開業当時からこの場所にあったのかもしれませんね。


 炭鉱の遺構を探していたはずが、気が付いたら鉄道の遺構に夢中になっていました(笑)。再開発の波に飲まれている多久市ですが、まだまだ魅力的なモノが多く残っています。炭鉱遺構はまた今度。

【関連・参考サイト】
弥生の森の散歩径」> 銘板コレクション(メニューから英国Patent Shaft)
Wikipedia : 多久駅
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JR矢岳駅の給水塔跡

 先月7月23日のこと。新聞に「SL給水塔、竹林で発見」という記事が。今になって“発見”とは随分と面白いなと記事を読んでみると…。こともあろうに、その数日前に撮影に行ったJR肥薩線の矢岳駅のことでした。記事によると、隣の大畑駅に給水塔があって矢岳駅にないはずはないということで、探してみたら竹林の中から発見されたとのこと。私が矢岳駅を訪ねた翌日(!)に、JR関係者や地元住民の手で竹藪が刈り払われ、その全貌を見ることができるようになったそうです。

 隣の大畑駅の給水塔は、経済産業省の選定する近代化産業遺産群の中のひとつ。それと同様のものが発見された訳ですので、非常に興味深いものです。いや、それより、昭和40年代まで使われていた鉄道施設なのに、SLが姿を消したことにより竹藪に埋もれ、人々の記憶にも埋もれ、今になって“発見”され再び世間に姿を現したというストーリーが面白いですね。

2008年7月21日のJR矢岳駅

 上の写真が竹藪が刈り払われる前日のもの。ホームに残る湧水盆の跡を写真に収めたのですが、まさかその奥の竹薮に石組みの給水塔跡があるとは思ってもみませんでした。

2008年8月1日のJR矢岳駅

 新聞で紹介された1週間後に行ってみました。大畑駅の給水塔とそっくりです。ちなみに給水塔とは、蒸気機関車に水を補給する施設のことで、元々は石組みの上に水を溜めるタンクが備え付けられています。現在はタンクがなくなって石組みだけになっています。

2008年8月1日のJR矢岳駅と給水塔

 矢岳駅ホームや行き交う列車からも良く見える位置にある給水塔。よく今まで見つからなかったものです。

JR矢岳駅no給水塔

 このような埋もれた遺産は、案外あちこちにあるのかもしれません。この発見、100周年を迎える肥薩線にタイムリーな出来事ですね。

【関連記事】
「雑記帳・JR大畑駅
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