九州ヘリテージ フィールドノート2022-10-13T22:42:38+09:00九州の近代化遺産・産業遺産を見て・調べて・紹介!するブログJUGEM「熊本の近代化遺産(上巻)」発売http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532582014-01-04T22:50:39+09:002014-01-04T13:50:39Z2014-01-04T13:50:39Zみなさま、明けましておめでとうございます。
本年も「九州ヘリテージ」とゴン太をよろしくお願いいたします。
さて、当サイト(ブログ)も年間1回だけの更新が定着してしまった感がありますが、もうこればっかりは言い訳できませんね。申し訳ございません。
サイ...ゴン太オススメ!
本年も「九州ヘリテージ」とゴン太をよろしくお願いいたします。
さて、当サイト(ブログ)も年間1回だけの更新が定着してしまった感がありますが、もうこればっかりは言い訳できませんね。申し訳ございません。
サイトの運営をちゃんとやりたいという思いもありましたが、昨年は予告していました「熊本の近代化遺産」という本を作ることに専念しておりました。
そしてついに(2013年11月末ですが)「熊本の近代化遺産(上巻)」を出版することができました。この本は熊本産業遺産研究会と熊本まちなみトラストという2団体の会員を中心としたメンバーで取材・執筆・編集をしており、私も取材から執筆、写真撮影、編集作業を担当しました。2年前に出版した「肥薩線の近代化遺産」でも執筆・編集は体験していましたが、今回はなんと上巻・下巻の同時進行の作業であったために予想以上に激務!もう本当に私にとって2013年はこの「熊本の近代化遺産」一色の1年でした。
「熊本の近代化遺産(上巻)」は、熊本市と上益城郡と宇城地域(県央)に残る近代化遺産を収録。そして「熊本の近代化遺産(下巻)」は県北と県南、天草地域を紹介していますが、この下巻ももうすぐ発売されます。もう少しお待ちください。]]>1年が過ぎてしまった訳だが…http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532572013-01-02T01:58:00+09:002013-01-01T17:01:57Z2013-01-01T16:58:00Z皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
前回の記事も同じ文章から始まっていますね。1年が過ぎるの早いものです。
なんだかんだで1年放置しちゃいまいしたので、もう誰も見てくれていないと思いますがひとつ告知を。
2013年中...ゴン太ゴン太の独り言
前回の記事も同じ文章から始まっていますね。1年が過ぎるの早いものです。
なんだかんだで1年放置しちゃいまいしたので、もう誰も見てくれていないと思いますがひとつ告知を。
2013年中に2冊の本を出版する予定です。もちろん単著ではありませんが、取材・執筆・写真撮影・編集まで関わらせてもらっています。
詳細はまた後ほどこのブログで紹介したいと思います。
京都大学火山研究センター・1928(昭和3)年
(熊本県南阿蘇村)
]]>新年のご挨拶とお知らせhttp://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532562012-01-02T00:35:00+09:002012-01-01T15:37:49Z2012-01-01T15:35:00Z 皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
昨年の大震災以降、更新を停止しており皆様には随分とご心配をお掛けいたした。ほったらかしになってしまった理由は複合的なものです。他にサイトを2つ立ち上げたことや、新しい事に取り...ゴン太ゴン太の独り言
昨年の大震災以降、更新を停止しており皆様には随分とご心配をお掛けいたした。ほったらかしになってしまった理由は複合的なものです。他にサイトを2つ立ち上げたことや、新しい事に取り組んだりして時間的な余裕がなくなり、また、大きなイベントなどもあり精神的にも余裕が無くなってしまいモチベーションが低下してしまいました。
しかしどうにか一区切りは付きましたので、新年を迎えたのを機に心機一転し「九州ヘリテージ」の活動を再開します(宣言するほどの事ではありませんが…)。でもこのブログ「雑記帳」は、今までとは違うものになります。とにかく見てきたものや気になるものをバンバンUPしていき、まさに「雑記帳」的な内容にしていきたいと考えておりますので、記事の中身は薄くなるかも?です。
実は今までに、現地で見てきたけど詳細が分からなかったり調べていなかったりで、雑記帳で紹介するタイミングを逃した“お蔵入り”物件が数多くあります。まずはそれらも含めて今後UPしていきたいと思います。
新年早々どうでもいい内容になってしまいましたが、みなさん今年もよろしくお願いいたします。
旧松本家住宅(北九州市)
]]>東日本大震災http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532552011-03-22T00:47:00+09:002011-04-02T12:26:07Z2011-03-21T15:47:00Z この10日あまり、テレビやWebにて伝えられる被災地の様子を見ていましたが、その惨状には言葉もありません。
この度の地震・津波でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りし、被災された地域のみなさまにお見舞い申し上げます。そして1日も早く復興されますよう...ゴン太ゴン太の独り言
この度の地震・津波でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りし、被災された地域のみなさまにお見舞い申し上げます。そして1日も早く復興されますよう心からお祈り申し上げます。]]>肥後銀行旧御船支店http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532542011-03-06T01:20:00+09:002011-03-09T07:51:48Z2011-03-05T16:20:00Z 熊本県のほぼ中央に位置する御船町は、かつて酒造で栄えた町です。その中心部を東西に御船川が流れており、左岸には古くからの商家や酒蔵などが建ち並び商店街も形成されていました。川沿いには白壁の大きな酒蔵がいくつも建ち並び、その光景は壮観だったといいます。
...ゴン太遺産探訪/建築・土木関連
しかし昭和30年代に、御船川の対岸(御船川右岸)に国道が整備されたことにより、街並みに大きな変化がおこります。町の中心ともいえる役場や郵便局、また警察署や保健所、職業安定所など多くの官公庁がその国道側に移転。それに追従するように銀行や企業の支店、商店なども移り、国道沿いは市街化していきました。
その結果、旧市街には魅力的な古い街並みの光景が多く残されることになります。ただ残念なことに現在酒造業は一軒も残っておらず、御船川沿いの酒蔵も河川改修により全てなくなっています。それでも、商家や民家などに白壁土蔵造りの建物が多く残されており、町並みの中にそれらを見つけながら散策を楽しめるエリアになっています。
さて、前置きが長くなりましたが、その旧市街の中心を抜ける大通りに、一見して“銀行”であったであろう立派な建物を見つけました。現在は職業訓練校の看板が掲げてあります。
ご近所の老人に話しを聞くと「今から30、40年前まで肥後銀行の支店があったんだよ」と。なるほど「肥後銀行旧御船支店」と言うわけです。何時ごろ建てられたかまではご存知ないよう。
別角度から。建物自体は木造で瓦葺。入口はシャッターが閉められ、中をうかがうことはできませんでした。
全体的に派手さはありませんが、壁面の装飾などは随分と細かな仕事がしてあります。
軒裏を見上げて。コーナー部分の処理がおもしろい。
現地で建物を見ながらいつの時代のものなのか推測するのも楽しいものです。私は昭和初期かな?とも思ったのですが、敷地脇には煉瓦の塀も残っており案外古いのかも…。で、結局見当も付きませんでした(笑)。みなさんどう思います?
正解ですが、この建物は大正10年9月1日に旧肥後銀行(現在の肥後銀行ではない)の御船支店として開設されたもの。大正12年に合併により安田銀行御船支店となりますが、昭和3年に肥後銀行が譲り受けます。そして昭和52年まで「肥後銀行御船支店」として使われていました。肥後銀行御船支店としては、老朽化やオンライン化への対応などの理由で国道沿いに新店舗を建設し移転しています。
肥後銀行御船支店だったこの建物、熊本県内に残る大正時代の銀行建築として貴重な建物ではないでしょうか。
Googleマップのストリートビューアーでこの建物前の通りを見ることができます。ちなみに、この通りには明治時代に2日間だけ熊本県庁が置かれていました。県庁跡を示す標柱をストリートビューアーでも見ることが出来ますよ。
【参考文献】
「御船町史」御船町史編纂委員会編・御船町・2007年
「肥後銀行50年史」肥後銀行企画室年史編集班編・株式会社肥後銀行・1977年
「肥後銀行70年史」肥後銀行企画部年史編纂担当編・株式会社肥後銀行・1996年
【取材協力】
株式会社肥後銀行 文化・広報室]]>三菱重工 地下工場http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532442011-02-14T00:54:00+09:002011-02-16T16:03:01Z2011-02-13T15:54:00Z 戦時中の熊本市には、爆撃機「飛龍」を生産した三菱重工熊本航空機製作所の大規模な工場がありました。現在、敷地跡の半分が陸上自衛隊健軍駐屯地(西部方面総監部)となり、三菱時代の工場建屋(詳細はコチラ)が倉庫などに転用されて現在も残されています。
当時...ゴン太遺産探訪/工場・電力関連コチラ)が倉庫などに転用されて現在も残されています。
当時の工場は巨大なうえに爆撃機を生産していたので、当然アメリカ軍の攻撃目標になります。実際に攻撃も受けており、施設被害だけでなく約30人の死傷者も出たとのこと。そこで工場は疎開と分散をすることになり、その一部は地下工場となりました。
「地元熊本に三菱重工の地下工場があったのか!」と、その事実を知ったときには随分と驚きました。小規模な地下工場跡は既にいくつか発見されていますが、“まだ発見されていない大規模な地下工場がある”という情報もあり更にビックリ。軍需工場だった三菱重工の地下工場、言ってみれば“飛行機を作っていた秘密工場”が今も地下で眠っているわけです。
と、そんなことを考えて間もない去年の2月のこと。地元新聞に「熊本市に地下工場跡・県内最大規模・三菱重工地下工場、熊本市龍田町で見つかる」と大きく報じられました。これは「熊本の戦争遺跡研究会」が聞き取りなどにより発見したもので、その調査を伝える記事には巨大な地下空間の写真も掲載されています。やっぱりあったんだ!と驚いたと共に「コレは是非とも実物を見てみたい」と思っていたところ、なんとその測量調査に同行させて頂くことができました。(研究会のT先生、ありがとうございました。)
地下工場への入口は、こんなところに!?と思うような住宅地奥の竹林内にあります。現在は種芋の保管庫として利用されているとのこと。
私有地の中ということもあり、人目にはつかない場所です。芋の保管庫として使われているために、内部には簡単な照明が設置してありました。
軽自動車と入口の比較。軽自動車であれば入ってしまいそう。
同方向を向いた入口4か所を、一旦この矩形の通路が接続しています。そして、この通路の横方向に大空間が広がっています。(下記平面図で左右方向を結ぶ一直線の通路部分)
写真から空間の大きさが伝わるでしょうか。奥で男性が脚立の上に立って、測量しています。左手のコンテナは芋の保管用。岩盤に掘られたものなので天井・壁面もしっかりとしています。床面は全面コンクリート。
高さ約4.3m、幅約4.7m、長さ約20mのこのような空間が2つあり、90度に近い角度でVの字の形になって繋がっています。
地下工場の平面図。手前(下側)に4つの入口があるのがわかります。
上の写真はVの字の角(上記平面図の三角頂点部分)から広角レンズ(10mm・Nikon D300)で撮影。その空間の広さと地下壕としての作りの良さがわかると思います。天井や床、壁面の仕上げも良く、また照明の効果もあると思いますが、地下壕にありがちな気味悪さは全くありません。
この地下工場は、飛龍のエンジンの組み立てと整備を行なうための工場として、昭和20年の春ごろに掘られたとのこと。工場付近の民家の納屋には数機分のエンジンが届いており整備を待っていたそうです。しかし、工場完成の直前になって終戦を迎えることになり、実際にこの地下工場が稼動することはありませんでした。
さて、今回紹介した三菱重工地下工場は、昨年12月に発売された「熊本の戦争遺跡」(編集:熊本の戦争遺跡研究会)にて詳しく紹介されています。同書は熊本県内に残る戦争遺産を綿密な調査でまとめたもので、貴重な写真が数多く掲載されているだけでなく、当時を知る関係者の証言、測量調査による図面など、驚くほど詳細な情報が載せられています。
2010年12月1日発行
A4判 212頁 定価:1,890円
編集 熊本の戦争遺跡研究会
発行 創想舎
熊本県内では紀伊國屋書店などの大型書店で購入することができます。戦時の中での“意外な熊本”を知ることができるオススメの一冊です
【関連記事】
「雑記帳:旧三菱重工熊本航空機製作所」
【関連サイト】
「ホープ印刷」> 『熊本の戦争遺跡』刊行のご案内
【参考資料】
「熊本の戦争遺跡」編集:熊本の戦争遺跡研究会]]>明けましておめでとうございますhttp://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532532011-01-01T23:38:00+09:002011-01-01T14:41:55Z2011-01-01T14:38:00Z 明けましておめでとうございます。今年も宜しくお願いいたします。
今年は何か変化を付けたいと思っています。去年もそんなことを思っていたような…。いや、今年は欲張ってでも色々と新たなことに挑戦したいですね。どこまでできるかわかりませんが、皆様宜しくお...ゴン太ゴン太の独り言
今年は何か変化を付けたいと思っています。去年もそんなことを思っていたような…。いや、今年は欲張ってでも色々と新たなことに挑戦したいですね。どこまでできるかわかりませんが、皆様宜しくお願いいたします。]]>下滝下発電所http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532522010-12-26T15:37:00+09:002011-05-02T16:00:24Z2010-12-26T06:37:00Z 日窒(旭化成)関連の発電所の紹介も一区切りついたので少し違うジャンルのネタを…と思っていたのですが、最近Twitterにて「九州には木造の発電所はありますか?」という質問を頂きました。木造の水力発電所といえば“廃”発電所の鮎帰発電所を思い出しましたが、現役のも...ゴン太遺産探訪/工場・電力関連鮎帰発電所を思い出しましたが、現役のものとなると…。ひとつだけ心当たりがあります。
実は以前紹介した馬見原発電所を見に行った際、周辺を散策していて偶然にも小さな木造の水力発電所を見つけていました。国土地理院1/25000地形図にも掲載されておらず、事前にその存在を全く知らなかったので現地ではとても驚き興奮したのは言うまでもありません(笑)。
その発電所とは、九州電力の「下滝下発電所」です。企業の自家用発電所なら有り得ると思っていた木造建屋ですが、まさか九州電力にその様な発電所が残っていたとは。電力会社の発電所は機器更新などで古い時代の建屋が残っていないという固定観念があったため、今まで九州電力の発電所はほぼノーマークでした。やはり様々な方向をチェックしていないといけませんね。
上の写真は車道から谷を見下ろして撮影したもの。下を流れるのは五ヶ瀬川です。道路脇に細い水圧鉄管が通っているのを偶然見つけたので、辛うじてその存在に気が付くことができました。ここから見ると、発電所というより“小屋”と言ったほうがぴったりくる感じ。
驚くことに発電所の敷地には車道は繋がっておらず、このような階段を数十メートル下ります。機器メンテや更新などの際は重量物の運搬に苦労しそうですが、車道も繋がっていないほど条件が厳しい場所にあったからこそ、木造の小さな建屋が残ったのかもしれませんね。
手前にスレートの倉庫や増築された部分もありますが、発電所建屋本体は切妻屋根の木造平屋です。細部を見てみると…。
特徴的なのがこの石積みの部分。地面から1メートルとちょっとの高さまでが石積みになっています。フェンスの外から確認する限りでは、建物ぐるっと一周全体的に下側が石積みになっているようです。水を使うということや立地などから、湿度を嫌って木造部分を地面から遠ざける意味合いでこのような造りになっているのかも。
フェンス越しにズームアップ。建屋入口には庇がありますが、その持ち送りには曲線の意匠が施されています。目を引く部分ですね。
施設の全体像。左奥には水圧鉄管が見え、その上を横切っている車道から1枚目の写真を撮影しました。
川に下りてから撮影。石垣の中央にはコンクリートアーチの小さな放水口が開いています。写真を見て気が付きましたが、室内では蛍光灯がついていますね。
現場では、建屋に掲げられている表札や水利使用標識などから九州電力の下滝下発電所だということ位しかわかりませんでした。しかし細部を見てみると結構古い建物であることは予想できます。「もしかしたらスゴイお宝級の発見かも」なんて勝手なことを考えながら帰路につきました。
帰宅後、数少ない手持ちの資料で「下滝下発電所」を探したところ、「熊本県の近代化遺産 近代化遺産総合調査報告」(熊本県教育委員会)でちゃんと取り上げられていました(汗)。さて、その資料によると下滝下発電所は大正10年2月に運転開始(九州電力のサイトでは大正10年12月※コメント欄に詳細あり)と判明!大正時代の木造建屋の発電所が現役で、しかも九州電力の発電所として現存しているとは実に素晴らしいことではないでしょうか。
木造建屋で現役というだけでも“九州唯一”ではないかと思いますが、この下滝下発電所の最大の特徴は洞窟内の湧水だけを取水して発電する“九州唯一”の湧水発電所だということです。通常、1/25000地形図には水力発電所がある場所には青い破線で導水トンネルが描かれていますが、この下滝下発電所には取水堰や導水トンネルも無いわけですからその表記もありません。また68kwと桁外れに小さい最大出力も湧水だけを使った水力発電だということを考えると納得です。原子力発電所も有する電力会社にも、このような個性的な発電所があるというのは面白ですね。
偶然に見つけた発電所ですが、多くの発見と教訓を得た一件でした。もう一度、九州電力の発電所をチェックしてみなくては。
右のマーカーは馬見原発電所で、左側が下滝下発電所。蘇陽峡の東(馬見原発電所)側からでなく、西側の国道265号側からのアクセスがオススメです。
【関連サイト】
「NPO法人くまもと温暖化対策センター」> 小水力発電
【参考文献・資料】
「一級河川における水力発電施設諸元一覧 九州地方整備局管内」国土交通省
「熊本県の近代化遺産 近代化遺産総合調査報告」熊本県教育委員会]]>五ヶ瀬川発電所http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532512010-12-10T01:40:00+09:002013-03-04T14:58:51Z2010-12-09T16:40:00Z 五ヶ瀬川水系の日窒(旭化成)関連発電所巡り、4回目は五ヶ瀬川発電所です。この発電所は大正9年設立の五ヶ瀬川電力株式会社により建設されます。大正11年7月に着工しますが、延岡からの機材・資材の運搬は非常に困難を極めたとのこと。輸送は牛馬と人力に頼るもので、...ゴン太遺産探訪/工場・電力関連
大正14年1月に発電所は完成しますが、翌年8月に五ヶ瀬川電力株式会社は日窒に買収されることに。この時代の日窒の発電所建設は、一旦新たに設立された別会社により行なわれることがあります。この五ヶ瀬川電力以外にも緑川電力※(緑川発電所)、阿蘇水力電気(馬見原発電所)などがあり、いずれも竣工して何年も経たないうちに買収、譲渡などで日窒に吸収されてしまっています。明らかに日窒の工場への送電を想定した発電所ですので、初めから日窒の手で建設すればいいのではないか?という疑問が。このような事例は他にもありそうで、何か理由があったのかもしれませんね。
※緑川電力は津留発電所を作った会社で、日窒の「旧緑川発電所」とは関係ない。2013年3月4日追記。
宮崎県日之影町の五ヶ瀬川沿いにある旭化成五ヶ瀬川発電所。廃線となった高千穂鉄道の日之影駅から500mほど延岡側へ行くと見えてきます。
3本の水圧鉄管があり、建物もこれまでの発電所に比べると大きくなっています。最大出力も13,500kwと、馬見原や川走川第一第二と比べ一桁違います。
対岸の県道237号から良く見えるためか、壁面には大きな「旭化成」の文字が見えます。
こちら側から見る建屋は、馬見原や川走川第一第二とほぼ同じ意匠です。ただ、丸窓に見える部分は換気口程度の穴が開いているだけのようでした。また、コンクリートブロック構造なのか、鉄筋コンクリート造なのかは外観からは判断がつきません(資料不足…スミマセン)。
発電所の裏手には車道が通っており、なんと水圧鉄管と発電所建屋の間を通り抜けることができます。直径2mはあろうかと思う水圧鉄管3本は迫力満点。その水圧鉄管と発電所建屋の接合部分真上に立つと、重低音で“ゴー”という水力発電所独特の腹に響く振動と音を堪能できます(笑)。
反対側に回って、こちらは放水口。水圧鉄管から発電所建屋に入った水は、(発電機の)水車を回した後にここから五ヶ瀬川に排出されます。石組みの三連アーチが特徴的で、周りの石垣も立派。
五ヶ瀬川下流側から見ると、上部水槽・水圧鉄管・発電所建屋・放水口と施設全体を一望することができます。取水堰などの設備も見てみたかったのですが、今回は時間が無く断念。あらためて行ってみたいと思っています。
上記説明の通り高千穂鉄道の日之影駅を目指して行けば、五ヶ瀬川対岸に簡単に見つけることができます。
【関連記事】
「雑記帳:馬見原発電所」
「雑記帳:川走川第一発電所」
「雑記帳:川走川第二発電所」
「雑記帳:五ヶ瀬川発電所」
「報告書」> 日窒鏡工場跡・小千代橋 > No.05
【参考文献・資料】
「一級河川における水力発電施設諸元一覧 九州地方整備局管内」国土交通省
「熊本県の近代化遺産 近代化遺産総合調査報告」熊本県教育委員会
]]>川走川第二発電所http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532502010-12-01T01:25:00+09:002010-12-09T16:44:20Z2010-11-30T16:25:00Z シリーズ3回目は川走川第二発電所です。第一発電所よりわずかに早い大正15年11月竣工で、建屋もよく似た形状です。水圧鉄管が1本だというところも同じですが、第一発電所の最高出力が2,000kwであるのに対し第二発電所は3,200kwと約1.5倍ほどの差があります。
馬...ゴン太遺産探訪/工場・電力関連
馬見原発電所や第一発電所と大きく違うのは、発電所の正面側になる妻壁部分。表面がモルタル仕上げになっており、丸窓が無い代わりに矩形の窓が三つ並んでいます。
そして第二発電所の最大の特徴といえるのが、中央に配置された入口にある立派な車寄せ。両サイドにある柱をよく見てみると…
大きい庇を支える柱ですが、中央部分が膨らんでいるように見えませんか?写真は広角レンズによる歪曲も加わっており歪んでいますが、現地で見る限りではわずかに“樽型”のように見えました。デザイン?それとも目の錯覚かな…。
正面以外の壁面にはモルタルは塗られておらず、馬見原発電所や第一発電所と同じコンクリートブロック造であることがわかります。ちなみに反対側の妻壁にも丸窓は無く、三つの矩形の窓が同じようにありました。
アクセスは非常に簡単。なんと県道沿いにありますので、詳しい説明もいらないでしょう。川走川が五ヶ瀬川と合流する地点であり、熊本県と宮崎県の県境でもあります。
【関連記事】
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「報告書」> 日窒鏡工場跡・小千代橋 > No.05
【参考文献・資料】
「一級河川における水力発電施設諸元一覧 九州地方整備局管内」国土交通省
「熊本県の近代化遺産 近代化遺産総合調査報告」熊本県教育委員会
]]>川走川第一発電所http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532492010-11-24T00:14:00+09:002010-12-09T16:43:06Z2010-11-23T15:14:00Z 馬見原発電所に続き、五ヶ瀬川水系の日窒(旭化成)関連発電所巡りの第二段は川走川第一発電所です。馬見原発電所に遅れること約1年後の大正13年に着工し、昭和2年に完成した川走川発電所。馬見原発電所と同じコンクリートブロック造の建屋は、その構造もほぼ同じとのこ...ゴン太遺産探訪/工場・電力関連馬見原発電所に続き、五ヶ瀬川水系の日窒(旭化成)関連発電所巡りの第二段は川走川第一発電所です。馬見原発電所に遅れること約1年後の大正13年に着工し、昭和2年に完成した川走川発電所。馬見原発電所と同じコンクリートブロック造の建屋は、その構造もほぼ同じとのこと(熊本県近代化遺産総合調査報告による)。確かに外観はとても良く似ています。
川走川第一発電所も白色に塗装されていますが、馬見原発電所とは違い“迷彩”の痕跡は見ることはできません。元からなかったのか、それともキレイに塗りなおされたのか。
赤煉瓦と違ってコンクリートのブロックは味気ないものだと思っていましたが、この川走川発電所では随分と味わい深い表情を出しています。ちなみに馬見原発電所のコンクリートブロックは現場で製作されたとのことなので、川走川発電所も同様に現場で製作されたものと思われます。
この位置で見てみると、扉の位置や丸窓の高さなどは馬見原発電所と異なることがわかります。
川走川第一発電所の排水口直下には、約6km下流にある川走川第二発電所の取水施設があります。この取水堰も馬見原発電所と同じく内部はコンクリートが充填されたもの。外観や水門、取水口のレイアウトなどもとてもよく似ています。
発電所に向かう道の途中に見つけた関連施設。おそらく沈砂池(調整池)などがあると思われますが、フェンスで立入が規制されているため未確認。水門と鉄管は確認できました。
前回紹介した馬見原発電所ほどではありませんが、こちらのアクセスもかなり難易度は高いでしょう。国道325号から発電所までの道は細く、特に集落から外れて谷底へと下る道は極端に細く曲がりくねっています。何度もハンドルを切り返しながらコーナーを曲がっていきますが、もしも対向車が来たらと思うとゾッとします。発電所への道は先にも伸びていますので、地元の方、農作業の車なども通る可能性がありますので十分注意が必要です。
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「報告書」> 日窒鏡工場跡・小千代橋 > No.05
【参考文献・資料】
「一級河川における水力発電施設諸元一覧 九州地方整備局管内」国土交通省
「熊本県の近代化遺産 近代化遺産総合調査報告」熊本県教育委員会
]]>馬見原発電所http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532482010-11-21T01:32:00+09:002010-12-09T16:45:39Z2010-11-20T16:32:00Z もう5年も昔のことになりますが、チッソの前身である日本窒素肥料株式会社の鏡工場(熊本県鏡町・現八代市)について当サイトで紹介しました。明治から昭和初期の九州南部で、一民間企業が化学工場と水力発電所をセットで造りながら成長し、ついには朝鮮にまで進出する...ゴン太遺産探訪/工場・電力関連当サイトで紹介しました。明治から昭和初期の九州南部で、一民間企業が化学工場と水力発電所をセットで造りながら成長し、ついには朝鮮にまで進出する巨大化学企業となる歴史はとても興味深いものでした。
その日窒の鏡工場は大正15年にはなくなりますが、取って代わるように当時最新の技術を使った工場が宮崎県延岡市に建設されます。日窒が延岡市に工場の建設を決めた理由のひとつに、五ヶ瀬川水系の豊富な水資源があったといわれています。実際に大正14年から昭和2年の間に、五ヶ瀬川発電所・馬見原発電所・川走川第一発電所・川走川第二発電所などが五ヶ瀬川水系に作られて延岡工場に電力を供給します。ちなみに延岡工場は後に日窒から独立し、旭化成株式会社のルーツとなっています。
熊本県にある馬見原発電所、川走川第一発電所、川走川第二発電所は、建設当時の古い建屋を残しており、日窒に絡む発電所建築として私にとっては非常に気になる存在でした。いつか見に行こうと思って延び延びになっていたところ、当サイト掲示板に馬見原発電所の写真がUPされているではありませんか!これは見に行かなくてはと、一気に日窒(旭化成)関連の発電所巡りをした次第です。
その中から、今回は馬見原(まみはら)発電所を紹介。大正12年に設立された阿蘇水力電気株式会社により建設されたもので、大正15年2月に完成。翌年の昭和2年には阿蘇水力電気は解散し、馬見原発電所は日窒へと譲渡されました。
馬見原発電所
馬見原発電所は、五ヶ瀬川本流と三ヶ所川の合流地点から僅かに上流の三ヶ所川左岸に位置しています。上写真は三ヶ所川右岸より撮影。白川発電所や緑川発電所などの、日窒の他の発電所とよく似た意匠の外観でコンクリートブロック構造。最大出力は5,000kwです。しかしまあ、よくこんなギリギリの場所に建設したものですね。
外壁は白く塗られていますが、その下地から面白い“模様”が浮き上がっています。戦時中、爆撃を避けるために迷彩として塗られたものだと思いますが、敵機から見たら実際どうだったのでしょう。チッソ水俣事業所内の戦前の建物や、曽木発電所の煉瓦壁にもこれら迷彩柄を見ることができるのでそれなりに効果はあったのかな。
立地的に建物を観察する角度が限定されますが、妻壁に面白いもの発見しました。一見ただの換気口ですが、フードの取り付け壁面をよく見てみると丸くコンクリートブロックが配置されていることがわかります。煉瓦建築などの妻壁上部の三角形部分(ペディメント)に丸窓が設けられているのをよく目にします。それらに比べると若干下側過ぎるかな…とも思いますが、同様に元は丸窓だったのかもしれませんね。
発電所へ行く途中に上部水槽があります。上写真の右下側には導水トンネルがあり、およそ6km離れた五ヶ瀬川上流から取水した水が流れ込んでいます。それにしても眺めが良すぎて怖いくらい(笑)。
馬見原発電所を上から。写真左上にみえるのは九州電力の三ヶ所発電所。水利権許可年度をみると大正14年とあるので随分古いことがわかりますが、建屋は真新しいものに更新されています。
五ヶ瀬川にある馬見原発電所の取水施設。石組みで曲線の美しい堰堤に見えますが、熊本県の近代化遺産調査報告書によれば石張りコンクリート重力式で内部には玉石コンクリートが充填してあるとのこと。
右上の“蘇陽峡”の文字にあるマーカーが発電所。左下のマーカーが取水施設。
古い水力発電所はへんぴな場所にあることが多いのですが、この馬見原発電所も例外ではなく非常に到達困難な場所にありました。もちろん発電所まで車道はありますが、軽自動車でも通行は厳しいと思われます。
発電所への行き方ですが、まず国道218号から服掛松キャンプ場を経由し「蘇陽峡・長崎鼻展望所」を目指します。小さな案内板が何箇所にもあるので長崎鼻展望所までは迷うことはないでしょう。展望所を過ぎると道は一気に谷底へと下って行くのですが、急勾配な上に狭くてガードレールもありません。さらには極端な極小カーブの連続ですので、車はその展望所の駐車場に置いて徒歩で下ることをオススメします。バイクや自転車であれば通行に余裕はありますが、十分な注意が必要。しばらく下ると1か所だけ分かれ道があり、「この先行き止まり」の看板の方へ進めば発電所が見えてきます。分かれ道のもう一方は、対岸である五ヶ瀬川左岸へと渡ることができます。
※国土地理院1/25000地形図の情報は古いので注意してください。地形図には馬見原発電所と三ヶ所発電所の間に橋がありますが、現在は橋台が残っているだけ。現状は五ヶ瀬川左岸と三ヶ所発電所の間に新しい橋が架けられています。ちなみにその橋の上からだと馬見原発電所もよく見えますよ(当記事1枚目の写真)。
長崎鼻展望所手前にある看板。“脅し”ではありませんでした。
【関連記事】
「雑記帳:馬見原発電所」
「雑記帳:川走川第一発電所」
「雑記帳:川走川第二発電所」
「雑記帳:五ヶ瀬川発電所」
「報告書」> 日窒鏡工場跡・小千代橋 > No.05
【参考文献・資料】
「一級河川における水力発電施設諸元一覧 九州地方整備局管内」国土交通省
「熊本県の近代化遺産 近代化遺産総合調査報告」熊本県教育委員会
]]>高千穂あまてらす鉄道と高千穂橋梁http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532472010-11-02T01:44:00+09:002010-11-05T01:12:24Z2010-11-01T16:44:00Z 宮崎県延岡市と高千穂町の50km間を五ヶ瀬川に沿って結んでいた高千穂鉄道。線路は五ヶ瀬川やその支流を何度も渡るために橋梁が多く、その中には東洋一の高さを誇る鉄道橋や、連続するアーチが美しいコンクリート橋などもあり鉄道構造物の見所も豊富です。平成15年にはト...ゴン太遺産探訪/鉄道・橋梁関連
そこで運行再開を目指し、地元の観光・商工関係者により「神話高千穂トロッコ鉄道株式会社」が設立されます。しかし資金面だけでなく様々な問題(Wikipedia高千穂鉄道参照)が発生。その様な中で平成19年12月に延岡〜槇峰間が廃止決定、平成20年12月には槇峰〜高千穂間の廃止が決まり、ついに全線廃止となってしまいました。現在、高千穂鉄道の設備や軌道などは沿線の自治体が譲り受けています。
平成20年4月、神話高千穂トロッコ鉄道は「高千穂あまてらす鉄道株式会社」と改名。最終的な目標は“全線復活”としながらも、当面は鉄道記念公園の指定とその管理者への選任を目指すとして、現在は高千穂〜天岩戸間で“遊具”による鉄道運行をしています。
さて、前置きが長かったのですが、今回はその“遊具”と“東洋一の高さの鉄道橋”を目当てに高千穂町を訪れてみました。
廃止されて間もないためか、Googleマップにもきちんと駅として記載されている高千穂駅。高千穂鉄道の看板もあり、廃止されていることを知らなければ普通に“駅”です。
現在、高千穂駅構内は「高千穂鉄道みに公園」として公開。入場するには駅の窓口で環境整備費として100円を支払います。
高千穂鉄道の車輌は譲渡されたり解体されたものもありましたが、車庫には2輌が展示保存されていました。
車輌は運転席など内部も公開されていますが、点検用のピットにも潜り込めるようになっています。ここで初めて鉄道車両のディーゼルエンジンを間近で見ましたが予想以上に大きくて驚きました。でっかいターボもついていましたよ。
そして本日のメインイベントが、この“スーパーカート”に乗ることです。高千穂駅から隣の天岩戸駅までの2.2km区間を約25分で往復します(料金は700円)。“遊具”だと思っていたら意外としっかりした造りになっているこの車輌。実は「スーパーカート」という商品名で、鉄道の保守点検用に作られ販売されているものです。東光産業株式会社製で、ホンダの160cc汎用エンジンを搭載しMAX25km/hだそうです。乗車定員は4名。上の写真はスーパーカート2輌が連結されています。
運転は係りの方が1人付いてくれます。このようなカートを運行するにあたり法的にはどうなのかと思い尋ねたところ、施設を所有する町の許可と車の運転免許があればOKだということでした。
それにしてもこのスーパーカートの乗り心地は最高。とても小さな車体で、乗員を囲むものは何もありません。小さなイスに腰掛けて前方の棒を握るだけ。それで20km/hくらいで線路を走るわけですから想像以上にスピード感があります。遊園地の乗り物よりスリリングかも。何より普通の鉄道の線路を、このような乗り物で走れることが面白いですね。
※上記の動画は編集して行程を短くしてあります。
高千穂駅を出て約10分で天岩戸駅に到着。途中には橋梁やトンネルもあり、また風景も変化に富んでいてあっという間に到着したという感じです。
この天岩戸駅の直ぐ先に、かつて“東洋一の高さの鉄道橋”を謳われていた高千穂橋梁があります。(上写真は高千穂駅方面を向いて撮影)
ここではカートを降り、係りの方の説明を聞くことができます。高千穂橋梁は上写真のように柵が造れており、現在は通行や立入はできません。「ここをスーパーカートで通行できたら面白いのに」と尋ねてみると、「橋の上では下から吹き上げる風が強くてカートの様な軽い車輌は危険なので通行できない」とのことでした。
高千穂橋梁は1972年の国鉄高千穂線日之影〜高千穂間開業から供用開始。下を流れる岩戸川からの高さは105m、三連の上路ワーレントラス橋で構成され全長は352.5mあります。(上の写真は南側にある国道218号の雲海橋から撮影)
ちなみに現在、この高千穂橋梁も高千穂町の所有になっています。今後の活用方法など、具体的なことは決まっていないとのこと。維持に多額の費用がかかるのは容易に想像できますが、カートを通す対策をするなり、歩道とするなり何らかの活用方法が見つかって欲しいものです。
県道237号から農道へ少し入ると、真下から見上げることができます。
高千穂橋梁の北側で岩戸川を渡る、県道237号の鹿狩戸橋から撮影。谷底の岩戸川も見え、高千穂橋梁の高さも際立ちます。
左側のマーカーはスーパーカートが発着する高千穂駅。一番右端のマーカーが高千穂橋梁で、その左隣が天岩戸駅。
スーパーカートは今年(平成22年)の夏休み限定でのイベントでしたが、来年3月まで延期されるとのことです。運行についての詳細は以下の公式サイトでご確認ください。
【関連サイト】
「高千穂あまてらす鉄道株式会社」
【関連記事】
「雑記帳:高千穂鉄道の現在」
「雑記帳:気になるニュース2題」
「雑記帳:第一白川橋梁 」]]>折尾高架橋http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532462010-10-18T01:05:00+09:002010-10-19T14:20:20Z2010-10-17T16:05:00Z 久しぶりのブログ更新です。もう更新のやり方を忘れかけていましたよ(笑)。いろいろと忙しかったのですが、ネタも随分と溜まってきておりますので簡単にでもこれからUPしていきたいと思います。
さて、以前から行きたくて行っていなかった場所のひとつに、折尾駅(...ゴン太遺産探訪/鉄道・橋梁関連
さて、以前から行きたくて行っていなかった場所のひとつに、折尾駅(福岡県北九州市)がありました。大正5年竣工の木造駅舎で、当時の面影を随所に残しているだけでなく“日本初の立体交差駅”といわれるだけあり、駅構内の通路、地下道、橋台などには多くの煉瓦構造物を見ることができます。さらに駅周辺には煉瓦の3連アーチの高架橋が2つあり、そのうちの一つにはとても珍しい“ねじりまんぽ”まであります。
見所満載の折尾駅周辺ですが、「JR鹿児島本線等折尾駅付近高架化事業」や「折尾地区総合整備事業」という再開発が始まり、大きくその景観が変わろうとしています。そんな中「9月末に煉瓦アーチの解体工事が始まる」という情報をキャッチ。加えて当サイトの掲示板にも9月末の解体を知らせる書き込みを頂きました。そこで慌てて見に行くことに。
上記Googleマップは現在のJR折尾駅周辺。左上側の青マーカーは折尾駅舎、中央赤マーカーが9月末に解体が恥始まる煉瓦3連アーチ。右下側の青マーカーがねじりまんぽがある煉瓦3連アーチ。なぜ二つの煉瓦3連アーチが少し離れてあるかというと…。
上記空撮は同じ折尾駅周辺の昭和49年の様子。国鉄折尾駅の上側を左右方向に横切るのが鹿児島本線で、上下方向に貫くのが筑豊本線。そして写真右下から中央へ伸びてきているが西鉄北九州線になります。写真中央に西鉄北九州線の折尾駅があるのですが、その直前に鹿児島本線と筑豊本線を結ぶ短絡線が横切っているのがわかります。それを越える為に、西鉄北九州線折尾駅とその周辺部分は煉瓦アーチを主体とする高架橋の上に作られました。
国鉄への乗り換えの利便性を少しでも高めようということでこのような形になったと思うのですが、大正3年にここまでやってしまう西鉄(当時は西鉄の前身会社の一つの九州電気軌道)ってスゴイですね。しかし、西鉄北九州線の折尾-黒崎間は平成12年に廃止。翌年には短絡線上に架けられていたプレートガーダーは撤去されているため、上記Googleの空撮には写っていません。
それでは現地を見て行きましょう。まずは“ねじりまんぽ”がある方の3連煉瓦アーチです。上写真は北側から見た3連アーチ。一番左側のアーチだけが“ねじりまんぽ”になっており、今回その価値が認められ解体は免れています。
俯瞰で見ると高架の上部は緑の草に覆われていますが、そこに線路があったことが想像できますね。左手奥は築堤になっていて、現在は駐輪場として活用されています。また写真右手に見えている線路が鹿児島本線と筑豊本線を結ぶ短絡線で、以前はここにプレートガーダー橋が架けられていました。3連アーチの右端が橋台の形状になっているのがわかりますね。
それではいよいよ“ねじりまんぽ”を見てみましょう。上写真は南側から見たもの。アーチ部分の煉瓦が“ねじり”ながら積まれているのがわかるでしょうか。
ねじりまんぽとは、通常の煉瓦のアーチとは煉瓦の積み方が違います。線路と道路が直角に交差するのであれば通常のアーチで問題ありません。しかし線路と道路が斜めに交差する場合、普通の煉瓦の積み方では構造的にアーチを保つことができません。そこで編み出されたのが煉瓦をらせん状に角度をつけて積み上げてアーチを構成する“ねじりまんぽ”という方法です。(全く分かり辛い説明でスミマセン(汗))
私がねじりまんぽを見るのはコレで3つ目ぐらいですが、ずっと見上げていると目が回りそうになるのは気のせいかな。でも実物をみるとやっぱり不思議ですね。こんなの煉瓦をどうやって積んだのかと(笑)。
高架の上部を隣接する駐輪場から撮影してみました。煉瓦で囲まれた四角の範囲にぽっかりと草原が広がる不思議な光景になっています。その草原の先に目を向けると…
「用地内立入禁止」の看板と、その向こうに見えるグレーの鉄板の間には短絡線が通っています。そのグレーの鉄板の向こう側が西鉄北九州線の折尾駅跡です。駅の屋根の一部が残っていますね。
さて、ここからは取り壊される方の煉瓦アーチを見てみましょう。今回解体が決まっているのは西鉄北九州線折尾駅跡の煉瓦高架橋と隣接する駅ビルです。
コンクリートのビルに取り込まれるような形になっていますが、煉瓦の3連アーチが残されているのがわかります。上写真の、一番手前のアーチを反対側から見てみたものが下の写真。
ビルの中に作られた通路のようになっており、煉瓦高架橋と後の時代に造られた駅ビルが一体化しているのがわかります。
接合部分はこんな感じ。ぴったりとくっついているようですが、切り離して煉瓦アーチだけ保存することは可能ではないでしょうか。新聞報道では「ビル解体時の振動で壊れる危険がある」という理由で一緒に解体されるようです…。
この駅ビル側の3連アーチ、実は駅ビルが建設される昭和60年までは6連でした。駅ビル建設の際に3連が解体されて今の形になったもので、上写真の様にアーチが続いていた痕跡も残っていました。
しかし、この記事を公開した時点ではもう解体されているかも…と思うとなんとも残念です。
【関連サイト】
「ALL-A blog」 > 「折尾高架橋01」「折尾高架橋02」
「ALL-A」 > 「折尾高架橋」
「asahi.com」> 土木遺産 「保存を」
【参考文献】
「北九州の近代化遺産」北九州地域史研究会/編・弦書房]]>藤本発電所(廃)http://blog.kyushu-heritage.jp/?eid=9532452010-09-08T23:37:00+09:002010-09-08T16:08:59Z2010-09-08T14:37:00Z 個人的に“廃発電所が好き”ということもあり(笑)、九州ヘリテージでは今までに廃止された水力発電所を幾つも紹介してきましたが、今回紹介する藤本発電所はその中でも最新、今年の3月に廃止されたばかりの水力発電所です。
藤本発電所 2010年8月29日撮影
昭和29年...ゴン太遺産探訪/工場・電力関連
藤本発電所 2010年8月29日撮影
昭和29年12月、戦後の電力不足の中で熊本県八代市(旧坂本村)の球磨川に藤本発電所が完成。藤本発電所の取水施設として翌年3月に重力式コンクリートダムの荒瀬ダムも竣工します。熊本県企業局のWebサイトによれば、荒瀬ダムと藤本発電所とは約600mの導水トンネルで結ばれており有効落差は約16m。2機の発電機で最大出力18,200kw、年間供給電力は約74,66万7,000kwhを発電していました。完成当時は熊本県初の大規模なダムということで、ダム湖と合わせて観光地として随分賑わったといいます。私の母も子どもの頃に学校行事として見学に行ったと言っていました。
藤本発電所の門にはこんな張り紙も…
建設当初は県内に占める電力供給割合の16%を担っていましたが、平成14年度時点では1%弱にまで低下。近年はダムが河川環境へ与える影響などが懸念されるようになり、また主要施設の老朽化や水利権の更新などの様々な要因から、発電所は廃止、ダムは撤去されることになりました。
荒瀬ダム 2010年8月29日撮影
荒瀬ダムの上流側 対岸に取水口が見える
荒瀬ダムと言えば、撤去と存続を巡るニュースでご存知の方も多いと思います。水利権は今年の3月で失効していて、取水、発電は出来ないので現在ダムのゲートは全開。ダム本体の撤去は2012年度から始まるそうですが、藤本発電所については導水トンネルを含めて撤去・解体のスケジュールは未定のようです。
【参考・関連サイト】
「熊本県」> 企業局のホームページ]]>